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消毒をしてガウンとマスクを付けて、藤次は分娩室へ入る。
初めて上る分娩台に不安なのか、カタカタと震えている絢音の側に行き、優しく笑いかける。
「大丈夫や。もう一踏ん張りや。もうじきやで?お母はん。」
「藤次さん……好きよ……でも、もしもの事があったら、赤ちゃん、守って?アタシは、どうなっても良いから…」
「なに縁起でもないこと考えとんねん阿保。大丈夫や。お前は、生きて母親になるんや。せやから、頑張り。何があっても、側におるから。」
「絶対よ…」
「うん。約束する。」
そうして、いよいよお産は佳境を迎える。
子宮の収縮(陣痛)と腹圧(いきみ)に押され、赤ちゃんは産道の形に合わせてカラダを回転させながら(回旋)、産道を通り抜ける。
この間も約1分間隔で強い痛みをともなう陣痛が起き、助産師の指導のもと、絢音は必死にいきむ。
出産までの所要時間の目安は、初産婦で1時間。短いようで長い時間の壁を、2人は乗り越えようとしていた。
「はい!下腹部にしっかり力を入れて、体をそらさないようにいきんで!そう、上手ですよ!陣痛の合間には力を抜き、しっかり呼吸して下さい!赤ちゃんに、十分酸素を届けましょう。」
「はい……はい……!!!」
真っ赤な険しい顔つきで、何度も頷きながら、息を整え、何度も練習してきた呼吸法を繰り返しながら、懸命に命を生み出そうとする絢音を、藤次はひたすら見守り、固く手を握り締める。
「絢音…おるからな?!頑張り!!もうすぐや!!頑張り!!」
砕けそうな足腰を必死で踏ん張り、もう既に十分頑張ってる人間に、何を言ってるんだろうと、心の中で呆れていたが、思いつく言葉はそれしかなくて、懸命に言葉を紡ぐ。
「頭、見えて来ましたよ!!もう一息ですよ!!お母さん!!」
刹那。絢音の中で、何かがプツンと切れる。
「藤太(とうた)…藤太!!!」
「えっ?」
初めて聞く名前に、藤次が瞬いた瞬間だった。
分娩室に、元気な赤ん坊の産声が響いたのは…
「はい。おめでとうございます。3,000グラム。元気な男の子ですよ…」
「…あ…」
助産師に差し出された、分泌物塗れの小さな命を、絢音はそっと抱き締める。
「藤太…やっと…会えた……」
「なんや…子供の性別…知っとったんかい…名前まで…」
「うん。ずっと黙ってて、勝手に…ごめんなさい…」
「ええんや。そんなん、どうでもええ…」
言って、持ち込みの許されたスマホの写真を起動させ、2人に向ける。
「笑って。新しい待ち受けにする。」
「いやよ。恥ずかしい。化粧だってしてないのに…」
「何言っとんや。今まで見てきた顔ん中で、一番…綺麗な顔しとる。せやから、な?」
「藤次さん…」
「ほんなら、ウチ、撮りましょか?お父さんも入れて3人。お父さんも、よう頑張らはりましたし…」
介添えをしていた看護師がそう名乗り出たので、藤次はスマホを彼女に渡して、戸惑う絢音と、泣きじゃくる我が子…藤太に寄り添う。
「笑って…初めての、家族写真や…」
「うん…」
溢れる涙を必死に堪えて笑顔を作り、藤次のスマホに、新たな絢音の笑顔が、記された。
こうして、5月16日の10時丁度。藤次と絢音の最初の子…棗藤太が、産声を上げた。
奇しくも、藤次の49回目の誕生日の前日の事だった。
*
「名前の由来?」
出産から数日後。
葵に言われ自宅謹慎と言う名の休暇をもらった藤次は、好物で今が旬の苺を頬張る妻から出た言葉に瞬く。
「そう。藤次って、名前の由来…」
「さあのう。聞いた事あらへんわ。親父がつけた言うんは知っとるけど…まあ、あの親父の事や。藤の花の季節に生まれたから、次の子の名前にも花入れようと、藤に次で藤次にしたんちゃうか?どう考えても、姓名判断とか、しそうにないしな。」
可愛いのうと、ベッドの中でスヤスヤと眠る藤太を眺めながらそう言うと、絢音は小さく笑う。
「藤の花の花言葉、知ってる?」
「ん?」
「「優しさ」「決して離れない」「恋に酔う」。藤次さん…そのまんま。名前の通り、生きてる。だから一文字…藤の花を、もらったの。」
「それで「藤太」か。お前らしい、ええ発想やな。」
「因みに、藤の花の精はお酒好きだって、何かで読んだ事もあるわ。将来楽しみね。」
「ほうか…そんなら20年後、楽しみやな。」
うりうりと、ぷっくりしたほっぺを指で突いてやってると、藤太の小さな手が、藤次のそれを握り締める。
「可愛い…親バカやと、言われてもええ。ワシ、本気でこの謹慎、ずっと解けんで欲しいわ。お前とこの子家において仕事やなんて、嫌や…」
「ダメよ。お父さんさんなんだから。家だって買ったし、藤太のためにも、物入りになるんだから、しっかり働いてもらわないと…悔しいけど、私のお金だけじゃこの子、育られないんだから…」
「なんや。ちょっと前まで、ワシが仕事でおらんの寂しい寂しいて駄々こねとったクセに、新しい男ができた瞬間、古旦那にはキリキリ外で働けて…ホンマに、勝手なやつや…」
言って、藤次はポケットから小さな水色の箱を取り出し、彼女に渡す。
「ワシから、藤太に初めてのプレゼントや。お前は、指輪やったけど…」
「じゃあこれ…ティファニー?」
「せや。バカの一つ覚えやけど、記念品言うたら、ここしか思いつかん。」
「開けて良い?」
「うん。」
そっと蓋を開けてみると、ループ状の小さな銀製の、フォークとスプーン。
「魔除けの銀製品…素敵…」
「あとはワシみたいに、食うに困らん嫁さん、見つけられるようにな。」
「なにそれ…」
そう言って笑い合い、それぞれを手に取り、藤太の小さな手に握らせる。
「幸せにしたるからな。藤太もやけど、ワシに家族をくれたお前も…ワシの一生かけて、幸せにする。せやから、ずっとワシの側で、笑っててや?」
「うん…約束ね。」
「あぁ…」
そうして見つめ合い、眠る藤太の見守る中、2人は静かに、口付けを交わし、込み上げてくる幸福に、身を委ねた。
幸せの裏に必ず潜む、暗く深い…不幸と言う闇に気づくことなく、ただひたすらに、明るい未来のみを、思い描いていた…
第8話 了
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