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第9話
「ほら藤太。あーん。」
「うー…」
夏が終わり、それでもまだ暑い日の続く京都北山のマンションの2階に居を移し、半年と少しが経とうとしていた。
差し出された離乳食が気に入ったのか、物欲しそうに手足をバタバタさせる藤太を優しく見つめながら、次の一口をあげようとした時だった。
玄関フロアの、オートロックの呼び鈴が鳴ったのは。
「ちょっと待っててね。」
「うー…まんまぁ〜」
覚束ない足取りでハイハイしてついてくるので、絢音は彼を抱き上げ、インターホンを取ると、画面に移し出されたのは、まだ仕事中のはずの、藤次の顔。
「やだ。また…?」
半ば呆れ顔で受話器に言うと、藤次の声が耳を撫でる。
「早よ開けて!!やっとの思いで捲いて来たんやから!」
「もー…知らないわよ。」
言って絢音はロックを解除すると、すぐさま藤次は奥に駆け込み、我が家に向かってまっしぐらに駆ける。
「ホントに、冗談抜きで佐保ちゃんから部長さんに言われるわよ?仕事抜け出して、頻繁に家に帰ってるって。」
「文句なら被告人に言い!こんな近くで事件起こすんが悪いんや!!ホラ藤太!!お父ちゃんやで?」
「きゃーー!!」
「ちょっと!手!洗って!!」
嬉しそうに藤次に抱きつこうとはしゃぐ藤太を必死に抱えながら絢音はそう言うと、藤次はまっしぐらに手洗い場に行き、言われた通りにする。
「ほら、洗ったで!早よ!!」
「ハイハイ。」
言って、藤次に藤太を渡すと、可愛い可愛いと、藤次は彼をあやしながら、食卓に置かれた小さな食器類を見やる。
「なんや。飯食っとったんかい。離乳食…食いつきどないや?」
「うん。市販品のでも好き嫌いせず食べてくれてるから、随分楽よ?今あげてるカボチャとサツマイモが、お気に入りみたい。」
「へぇ、好き嫌いせんと、ええ子やな藤太。お父ちゃんがお前くらいん時は、あれ嫌これ嫌て、散々お手伝いさんに駄々こねてたんやで〜。お母ちゃんの飯が、よっぽど美味いんやろなぁ〜」
言って、藤太を床に座らせ、離乳食をひと匙掬って口へと入れる。
「ワシは、小さい頃からお袋の味とか知らんから、ホンマにお前が、羨ましいわ。ぎょうさん食べて、早よ歩けるようになりや。」
「藤次さん…」
藤太に離乳食を与えながら寂しそうに呟く藤次の横顔を見ているうちに、絢音は胸がキュッと締め付けられ、そっと彼を抱き寄せると、藤次の腕が腰に回される。
「お前、ホンマええ母親やな。ワシまで、甘えたなる…」
「そんなこと言って、アタシ…藤次さんのお母さんじゃないわよ?」
「分かってるわ。阿保…お前は、ワシの女や。」
「うん……好きよ…」
「ワシも…好きや…」
そうして、唇と唇が触れようとした瞬間だった。
玄関ホールのオートロックが鳴ったのは。
「佐保ちゃんね。きっと。」
「せやろな。ったく、相変わらず、野暮な相棒や。」
ぼやく藤次に笑いかけ、インターホンを取ると、耳をつんざ抜く佐保子の怒声が部屋中に響き渡る。
「バカ検事!!!いるのは分かってるんですよ!!!部長に電話されたくなかったら、早く出て来て下さい!!!!それとも、また残業したいんですか!!!??」
「きゃーー!!!」
ケラケラと愉快そうに笑う藤太につられて、藤次と絢音も笑う。
「アカン…藤太、お父ちゃん、あの鬼娘に殺されてまうわ。助けて…」
笑う息子に頬ずりしながらそんな事を口にすると、絢音がコートと鞄を持って来る。
「ホラ、佐保ちゃんが本気で鬼になる前に、早く!」
「あぁ…その前に…」
「ん?」
不思議そうに首を捻る絢音を抱き寄せ、藤次は軽く彼女にキスをする。
「…遅なるけど、ワシにもうまい飯作って、待っててや?」
「うん。食べたいもの…ある?」
「一番は、ホンマはお前やけど、やっと授乳終わったし、ゆっくり寝たいやろ?せやから、サンマがええかな?」
「バカ…藤太の前で、そんな事言わないでよ。」
「なんでや。藤太も男や。こんな魅力的な嫁さん抱きたいって気持ち、分かってくれるて。」
「………避妊、してね?まだ、生理安定しないから。」
「分かった。ほんならゴムも、一緒に買うとって?久しぶりに、優しくしたる。」
「煙草は、藤太いるから、ダメよ?」
「うん。ほんなら、行くな?」
「うん。いってらっしゃい…」
名残惜しそうに身体を離して、部屋を出て行く藤次を見つめながら、足元で自分を不思議そうに見上げる藤太を、絢音はそっと抱き締める。
「不思議ね。前よりずっと…お父さんの、好きって気持ち、伝わってくるようになって、お母さん…心臓に悪いわ。」
「うー…」
幸せ過ぎて怖くて、満たされて、言いようのない幸福感で胸をときめかせながら、絢音は藤太に離乳食を与える作業を再開した。
*
「…で。北山周辺の住宅街のベランダに忍び込んで、約3ヶ月の間に、女性物の下着20点。盗んだ事実、認めるんですね?」
「はい…自分でも、バカな事したて、反省してます。ホンマに、すんません…」
「まあ、そう言って反省されてる弁を、裁判でもしっかり述べて下さい。」
言って、藤次は眼鏡を取って、調書を閉じようとした時だった。
「あの…未遂は、罪にならないんですよね?」
「まあ、内容によりますが…判断はこちらでします。申したいことがあるなら、正直に述べて下さい…」
その言葉に、20代そこそこの眼鏡を掛けた男は、顔を赤らめ口を開く。
「二丁目の、ノワール北山の、二階の角部屋のベランダに、忍び込んだ事、あります。」
「!」
ピクっと、藤次のこめかみが僅かに揺れ、佐保子も目を丸くする。
北山二丁目のノワール北山の二階の角部屋…どう言う運命の悪戯か、そこは、藤次の自宅だった。
「未遂…と言われましたね。何も、盗ってない。」
「はい。でも、そこに住んでる女性が、とっても綺麗で…どうしても欲しくて…でも、その日は何も干してなかったから、帰ろうとしたんです。そしたら…」
「そしたら…?」
ギリっと、ペンを握る藤次の手に力が篭る。
「見えたんです。窓から。彼女の肌が…赤ちゃんに、おっぱいあげてる姿で、それで僕、夢中になってスマホで…」
ベキッと、ペンが折れる音がして、佐保子と男は瞬く。
「失礼。続けてください。スマホで、何をしたんですか?」
明らかに、先程と違う…言いようのない藤次の迫力に気圧されながらも、男は藤次の逆鱗に触れる一言を発する。
「撮影…しました。彼女の…半裸を…」
「ぐ…具体的に、どの辺りを?」
「む、胸の辺り…赤ん坊が邪魔で、うまく撮れなかったですけど、あの!これって罪には…」
その瞬間、バンと、藤次は机を両手で叩きつけ立ち上がり、瞬く男に我を忘れてがなる。
「なるわボケェ!!立派な盗撮や!!建造物侵入!各都道府県の迷惑防止条例違反!及び軽犯罪法違反や!!さっさとスマホ貸せ!!人の女房の身体、よくも貴様……!!」
「えぇっ!!!?」
「検事!!落ち着いて下さい!!消したりしたら、検事が証拠隠滅の罪で逮捕ですよ!!?」
「せやけど、ワシそんなもんを法廷に晒せるかい!!止めてくれるな!!ホラ!早よ!出せ!!」
「検事!!本当にダメですってば!!とにかく落ち着いて!!警察に連絡しましょう!!」
…正に修羅場と化した検事室の窓辺から、黄色に色づいた銀杏の葉が、静かに揺れていた。
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