148人が本棚に入れています
本棚に追加
「やめたぁ?!」
とある金曜日。
いつものように絢音に会おうと、絵本の読み聞かせ会に顔を出した藤次だが、居合わせた他のボランティア女性の口から聞かされた言葉に耳を疑う。
「なんか急にねぇ。辞めるぅ言うて。うちらも止めたんえ?絢音ちゃん、子供に人気やったし…」
「せ、せやったら、住所…住んでるとこは?!」
藤次の問いに、女性はさあと首を傾げる。
「一応他の人にも聞いてみるけど、知らん思いますよ?絢音ちゃん、あんまり自分の事、話したがらんかったさかい。」
「そんな……」
*
「やねちゃん。絢音ちゃん!」
「あっ!はい!!」
名前を呼ばれ、ぼうっと窓の外を眺めていた絢音は、弾かれたように声のした方を向くと、仲の良いデイケアの女性職員が、不思議そうに自分を見つめていた。
「どうしたの?ボーッとして。何か悩み事でもあるの?」
「あ…いえ、なんでも……そう!桜……綺麗だなぁって、見てたんです!」
「ああ。本当ね。サラサラ風に靡いて、綺麗ね。」
プログラムにも参加してねと付け加えて、女性職員は立ち去る。
一息ついて、絢音はまた、窓の外に目を向ける。
「春は…嫌い…」
眩いばかりの陽気の影に潜む、暗く冷たい消せない記憶が、毎年心の奥底に犇き、この時期は精神的に不安定になる。
けど、それ以上に、自分の胸の中にいるのは……
「(好きや…)」
「一緒にいても、不幸になるだけだから……」
言い聞かせるように呟き、絢音は椅子の上で膝を抱えて蹲った。
*
「花藤病院……ここか。」
夕方。
藤次は京都市内のとある病院の前に立っていた。
手にしていたのは、読み聞かせ会のメンバーに聞き回ってやっと入手した、絢音の手がかりが記されたメモ。
それを頼りに、ここまでやってきた。
「冷静になれば、聴取取ってんねんから、調べれば住所分かんねんけど…さすがに、あかんよなぁ〜」
まるでストーカーやんと自嘲気味に呟き、藤次は病院の入り口を覗き込む。
どうしてももう一度、彼女に会いたい。
女々しいと思われてもいい。
しつこいと蔑まれてもいい。
もう一度伝えたい。
君を愛していると。
その一心で待っていると、小型のマイクロバスが入り口に横付けされ、病院の中から数人が現れる。
その中にいた、長い黒髪を1つに結った、水色のブラウスを着た女性…
「かさ……絢音!!!」
「!!?」
自分でも驚いた。
こんなにすぐ、会えるなんて。
運命なんて信じるクチではなかったが、今この瞬間、藤次は自分に差し出された運命を信じて、マイクロバスに乗りかけていた絢音に駆け寄る。
「なんで…」
「なんでて、そんなん…会いたかっただけや…」
「っ!!」
みるみる顔が紅潮していくのが、自分でも分かった。
ただ会いたい。その為だけに、ここまで来てくれた。
この人は、自分を求めてくれている。
でも自分には、それに応える資格はない。
「迷惑って言ったはずです!帰って!」
「嫌や!もっかい、ちゃんと話さして!!」
言って、藤次が絢音の手首を掴んだ時だった。
「絢音ちゃん!大丈夫?!」
騒ぎを聞きつけたデイケアの女性職員が、2人の間に割って入る。
「なんですかアナタ!あんまりしつこいようなら、警察呼びますよ!」
「いや、ワシはその…こ、」
「こ?」
怪訝な顔をする女性職員。どうする。どうすれば分かってもらえる?
短い思考の末閃いた言葉を、藤次は口にする。
「婚約者です!!この娘の!!」
「!!?」
「せやからその…すんません!!!」
呆気に取られる一同に会釈すると、藤次は呆然としていた絢音の手を掴み、その場を駆け足で立ち去った。
*
「婚約者だなんて…いい加減なこと言わないでください。誤解されたじゃないですか…」
病院からほど近い公園。
キチンと話そう。
そう言われて、不本意そうにベンチに座る絢音に、藤次は自販機で買ったコーヒーを差し出す。
「いい加減やない。本気や。君さえうん言うてくれたら、ちゃんと真面目に付き合いたい。」
隣に座り、包むように手を握り締めてくる藤次。
本当なら、今すぐハイと応えたい。
けれど…自分は…
「だから、ダメなんです!!私なんか!!」
「何がダメなんや!?ワシ…俺のこと、そんなに嫌いなんか?」
「嫌いとか好きとか…そう言うのじゃなくて…」
「じゃあなんやねん。もう、はっきり言うてくれんか?やないと俺、諦めきれへんわ…」
握り締めた手が、小さく震える。
ここまで真剣に想いを伝えてくれている人から、これ以上逃げるわけにはいかない。
観念したように、絢音は重い口を開く。
「されたんです。」
「えっ?」
聞き取れなかったのか、不思議そうに自分を見つめる藤次の目を見て、絢音はもう一度、自分を縛る過去の呪いを口にする。
「レイプされたんです。私…」
「レイプ……強姦……いつ?!」
顔色を変え、怒りにも似た表情で詰め寄る藤次に、絢音は更に続ける。
「20年前…二十歳の時に……それ以来私、男の人、怖くて………っ!!」
堪えきれず、溢れてきた涙を隠すように、握られた手を解き、顔を覆う。
「特に私、セックスが怖くてできないんです。可笑しいでしょ?もうすぐ40なのに、その時の経験しかないんです。だから、こんな面倒でつまんない女、さっさと見限って……!」
瞬間、あの夜と同じ暖かい温もりが、身体を包み込む。
ザアッと風が吹き、涙で滲む肩越しの視界が、桜で覆われていく。
「なつめ……さん?」
「すまん。いや、ごめんな?辛い事、言わせてしもうて…」
ギュッと、抱き締める腕に力が入り、息をするのも切ないくらい身体が締め付けられ、絢音の心臓は鼓動を早める。
「そんな…こと…でも、私…」
「好きや。」
「!」
瞬く絢音をゆっくり自分の眼前に導くと、藤次は優しく笑いかける。
「好きや。どんな過去があってもええ。今の君が、俺は好きやねん。せやから、一緒におって?」
「でも、私……できないから…」
「そんなん、どうにでもなるて。一緒におったら、自然とできるようになるかもしれへんやろ?」
「でも………ん。」
軽い、触れるだけの優しいキス。
名残惜しそうにその唇を離すと、藤次はもう一度、絢音を抱き締める。
「頼む。側におってくれ。もう、お前のおらへん日常…耐えられへん。」
掠れていく声に誘発され、涙がまた溢れてくる。
同時に、ずっと見て見ぬふりをしていた想いが溢れてきて、戸惑うようにぶら下がっていた腕が、藤次の背中に回る。
「そんなの…あたしだって…」
降り頻る桜吹雪の中で、2人はいつまでも抱き合い涙を流していたが、不意に絢音が小さくくしゃみをしたので、藤次は薄く笑って、腕を解く。
「なんかあったかいモン、食いに行くか?これからの事も、ちゃんと話したいし。」
「はい。でも、あの、」
「ん?」
なんやと問いかけるような目で見る藤次に、絢音は小さくつぶやく。
「この間の…真理子さんて人、彼女なんじゃないんですか?」
その言葉に、藤次は笑って、ピンと彼女のおでこを指で弾く。
「ただの飲み屋の店員や。なんや、ヤキモチ妬いてくれとんか?可愛い…」
「だって…」
俯く彼女をまた抱きしめて、藤次は耳元で囁く。
「遊びはもう飽きたとこや。これからは、お前だけを愛していく。お前だけを見つめて行く。せやから、ずっと隣で笑っててや。お前の笑顔が、ワシは一番…好きや。」
「棗さん…」
震える小さな背中をさすりながら、藤次は密かに、あの福岡の、自分の心の中にずっと留まり涙していた、白い肌の女の名前を呟く。
「(ホンマの意味で、さよならや。美知子…)」
第一話 了
最初のコメントを投稿しよう!