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「今日はチャリ?」
半分くらい飲み終わったころに訊いてみた。
「ううん。車。兄の彼女が送ってくれる予定で」
カップを口に添えたままマチは答えた。Code‐9の狭い出入り口から次々と客が吐きだされてくるが、タケさんの姿はまだない。
「次はいつ来るの?」
気づけば黒ぶちメガネがこっちを向いていた。
「……え?」
「あ、えっと。いつもどんなバンド見に来てるのかなって」
マチがあわてたように言い直すと、なにやら自分の中の知らない場所をくすぐられたような感覚がした。
落ち着かないが悪い気はしない。俺は「いろいろ」と答えて、それから少し考え、親指から順に指を折った。
「ふつーに見に行くのはサトウズとかGAN-ST.とか、イフタフ……あと9696」
「待って、今の二つ知らない。メモしていい? 聴いてみたい」
マチがリュックの中に手をつっこんで、水色のふせんとボールペンを取り出した。なんでライブハウスにそんなもの持ってきてんの――などと野暮なことは言わない。マチは学校帰りだ。リュックの底にはたぶん制服が押しこめられている。
「持とうか?」
ドリンクを預かると、マチは飾り気のない長方形のふせんに、まず『イフタフ』と書いた。さすがに手元が不安定で、字がゆがんでいる。でも、ふつうに書いたらきれいな字だと思う。スリムでていねいな文字。瀬戸小町が黒板に書く文字も、そんなふうだった気がする。
「あ、クロクロは数字。9696。あとイフタフは正式名称もっと長くて……貸して」
まどろっこしいので、ドリンクと筆記用具を交換して、俺はマチの書いた文字のあとに、『イフタフ・ヤー・シムシム』と続けた。ペン先をじっと見守っていたマチが探るようにそれを発音し、レンズ越しの目で俺を見る。
「これ、何語?」
「たぶんアラビア語。ひらけゴマって意味らしいよ」
「アラビアンナイトだ」
「そう。ボーカルがシンドバッドって名前で、他にアリババとアブーとハサンがいるけど、スーツでメロコアやってる」
「なにそれ。興味ある」
マチが笑った。俺もつられた。イフタフを面白がれる感覚は俺にとって貴重だ。
「マチはなに聴いてるの」
「わたしは、WHITE&SILVERと、電竜ってバンドと、アレグロアンダンテが三本柱。あとはライブ見ていいなって思った曲を、いろいろちょっとずつ」
「すげー、雑食」
思わず笑った。『いろいろちょっと』はともかく、名をあげた三つは伝説級のロックバンドと、かなりマイナーな青春パンクバンド、そして完全にV系なのにアイドルみたいなキラキラの曲ばかり発表している色物バンドだ。共通点なんてまるでなさそうだったけど、マチの中では刺さるものがあったんだろう。それが何だか知りたくなる。
「おすすめの曲教えて。どのバンドも代表曲くらいしか知らない」
「あ、うん。書きます」
急に敬語になったマチが、ていねいに曲名を書き始めた。小さなふせんはすぐに余白がなくなって、二枚目に移る。その手元を、俺はじっと見る。
人差し指の腹に蛍光ペンのインクがついていた。まぶしいピンク。日本史の授業でよく「マーカー引け」と指示される。唐突にそんなことを出して、そっと指先から視線をはずす。かわりに、たくさん並んだ曲名を目で追う。
「……バンドは知ってるけどここの曲ひとつも知らない」
「全部アルバム収録曲だから。わたし、王道よりマイナーなのが好きみたい」
マチが苦笑いする。自分のことなのに推測で語るのがおもしろかった。もっといろいろ訊いてみたくなる。他の会場にも行くの? いつも誰と行ってる? 次はいつ来るの――と、さっきのマチの質問がそのまま頭に浮かんで思わず口を手で覆う。
「どうしたの?」
「……いやえっと」
ごまかすようにさっとスマホを操作する。
「アレグロアンダンテって、近々フェスに出ない? 名前見た気がする」
「出るよ。でもわたしどうせ行けないから……」
悔しそうにマチは言った。分かるわーと思う。そもそもチケットが高いし、会場までの交通費がチケット代の倍かかる。なにより時間が工面できない。俺も現地参戦は早々にあきらめた。
指先でスマホの画面にロックをかけながら、不満そうな横顔を見つめる。
フェス当日に全編が生配信されることを、マチは知っているだろうか。
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