賞味期限

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 私の恋人の悪癖が再発したのは、梅雨入りのじめじめとした午後のことだった。  仕事から帰ると、恋人の沙代がこの間買ったプリンを食べていた。  ただいま、と言いながらも、あのプリン美味しいよな、という思いと微かな違和感を抱いた。  この違和感はなんだろうと思いながら着替え、リビングに戻って再度沙代の姿を見た時、違和感の理由に気づいた。  ラベルに書かれた文字が見えたからだ。そのことを直接口にするのが躊躇われ、遠回しに尋ねてみる。 「それ、賞味期限いつまでだっけ」  沙代の動きが少しだけ止まった。プラスチックのスプーンは軽く宙を彷徨い、視線は壁に逸らされる。  美容院で染めたばかりの綺麗なセミロングの髪が沙代の顔を少し隠していて、私からは全貌が見えない。 「昨日」  短い答えになんて言っていいかわからなかった。  昨日。昨日なら、やめておけば、と言えるほどのことではない、と思う。それくらいならば、きっと誰もが出来心で食べるだろう。 「まあ、いけるかなって」  曖昧な笑みを口元に浮かべながら言われ、そう、と返事をするしかなかった。  たまたまかもしれない。別にまだ断言するほどではないし。  なんて思って先送りにしまったのは、私もその問題を直視するのが怖かったからかもしれない。  それからも沙代の賞味期限切れのものを食べる行為は続いた。  一日、二日、三日、と少しずつ昔のものを食べるようになる姿は見ていられず、私はついに口を挟んだ。 「その癖、やめたんじゃなかったっけ」  沙代の目の前に置かれた漬物を睨むようにしながら私は言う。  なんとなく、沙代の目は見れなかった。 「……静香には、関係ないじゃん」 「関係ないわけないじゃん、一緒に暮らしてる人が、こんな風に昔のものばっかり食べてさ」  お互いの目を見ないままに声を荒げる。 「わざとでしょ。わざと賞味期限切れるようにしてるでしょ、沙代」  ついに沙代は黙ってしまった。  沙代の唇がきつく噛みしめられているのが視界の隅に映る。 「今度は何があったの」  できるだけ声を荒げないようにして尋ねる。  前にも似たようなことがあった。  あれは私と沙代が付き合い始めて少し経った頃だったと思う。  賞味期限の過ぎたパンをよく口にしていた沙代を問い詰めると、「父さんに私達が付き合ってることがバレそうで」と告げられた。  そのどうしようもない理由に、どうもできない言葉に、私は立ち尽くすしかなかったのだ。  沙代の父は娘が同性を好きになる人間であることを薄々察しながらも認めたがらず、ちくちくと沙代の傷つく言葉を投げかけていたらしい。  そのストレスから自分を傷つける方向へと走ってしまったのだ。  あの時は沙代が吹っ切れたのと、実家を出たことででひと段落がついた。  沙代は笑いながら「なに言われたって、自分は変えらんないから、しょうがないじゃんね」と言っていた。  それからは賞味期限切れのものを食べ続けることなんてなかったのに。 「ねえ、何が理由なの」  あの頃はさらりと教えてくれたのに、どうして今は押し黙ってしまうの。 「ねえ」  私に言えないような理由なのか。 「ねえ、答えてよ!」  沙代は答えない。  それどころか震える手で箸を掴み、漬物を口に押し込み始める。  音を鳴らす様はまるで自分の骨を砕いているかのようで。 「そうやって、自分で自分を傷つけるの、やめなよ」  気がつくと、私は沙代の腕を抱きしめるようにして止めていた。  まるで、縋り付くようだ。 「賞味期限だから、別に過ぎてても大丈夫だよ。体に悪いわけでもないし。味が落ちてるだけで。ていうか、静香に、そんなこと言う権利、ある? ないでしょ、そんなの、止める権利なんてさ」  ばらばらと並べ立てられる言い訳に、私は必死に首を振った。 「自分を大事にしてないことに変わりはないでしょ」 「大事にして何になるの」  その時になって初めて、沙代は私の目を見た。  ぼろぼろと涙がこぼれていく。 「こんな、こんな体、私みたいな、私なんか、大事にして何になるっていうの」  悲痛な声を上げる沙代に私は何も言えなかった。  沙代はこんなに痩せていただろうか。  ああ、沙代の心からの笑顔を見たのはいつのことだろう。  私はこんなにも一緒にいるのに、沙代のことを何も見ていなかった。  近かったからこそ、見えていなかったのだろうか。 「父さんから、電話があったの。お前も、そろそろ結婚を、真剣に考える、時期だろって。い、行き遅れてからじゃ、遅い、って」  最近ではほとんど連絡を取っていないと言っていたのに。  途切れ途切れの声が痛々しくて、荒い息が苦しそうで、私はどうしてあげることもできない。 「お前も、もう、賞味期限ギリギリなんだから、って、言われたの」  時が止まったような気がした。 「お前なんかどうせ大した男に見初められたりしないけど、それでも歳が若いうちならどうにかなるかもしれないのに、それももうすぐ叶わなくなるんだって」  叫びが痛いくらいで、私の体は固まってしまったようで、何もできない。見ていることしかできない。 「じゃあ、早く、早くそうなっちゃえばいいのって。私の、私の身体なんか、早く賞味期限切れになって、誰にも欲しがられなくなれば」  そうやって、そうなりたいから、自分の身体がそうなるように食べ続けて、傷つけて、そんな深い深い深い悲しみ憎しみ悔しさ、そして怒り。一体私に何ができる。 「わたし、誰にも、食べられたいなんて、言ったことないのに!」  そう叫んだ沙代が椅子から崩れ落ちる。  床に膝をつき、頭を抱え、乱れた髪を振って喉から声を迸らせた。 「あああああ」  私は必死に体を動かして、必死にその暴れる身体を抱きしめた。  何処かへ行ってしまいそうだった。  私が触れていなければ、沙代は何処かに行ってしまう。 「沙代、さよ、沙代」  何度も何度も何度も名前を呼んで、ひぅ、と沙代の喉から音がこぼれた。 「私達は誰かに食べられるために生きてるわけじゃないよ」  沙代の手が私の肩を掴む。縋られているのか。押し返されているのか。弱々しくてわからない。 「ねえ、私達、食べ物じゃないから、賞味期限なんてないよ。ねえ、ねえそうでしょ」  どちらでもいい。私が抱きしめるから。  ごめんね、あなたの意思の確認もしないでね。  あとで山ほど謝るから、今は抱きしめさせてよ、泣いてるあなたを。 「そうでしょ、そうなんだよ、ねえ」  自分に言い聞かせるように私は言う。  私、あなたの苦しみをきっと理解できてないや。  でも、それでも、あなたから離れたくないんだよ。 「私の大切な人を、傷つけるの、やめてくれたら、嬉しいなぁ」  沙代に言っているのか、沙代のお父さんに言っているのか、途中からわからなくなる。  沙代の頭を撫でながら、私はできるだけ柔らかい声で沙代に言う。 「私がいくら恋人でもさ、そりゃ、止める権利はないかもだけどさ、賞味期限切れのもの、食べるのやめなよってさ、言っても沙代は聞いても聞かなくても自由だけどさぁ」  わかってるけど、でも、それでもやめてほしいなぁ。と思ってしまうのだ。  私の大切な人を本人も大切にしてくれたら、こんなに嬉しいことってあるだろうか。 「沙代のこと、心配する権利くらいは、あるでしょ」  うん、と微かに、本当に微かに頷いてくれて、それが泣きたくなるほど嬉しくて愛おしい。 「しずか」 「うん」 「静香」  それから沙代は長い時間をかけて、ぽつぽつと、ゆっくり私に話してくれた。  すぐに自分のことを大切にはできないかもしれないけど、呪いみたいに父の言葉は耳から離れないけど、それでも大切にできたらいいなと思うから、だから。 「それまでは、静香が、大切にしてくれると、嬉しいなぁ」  そう言って柔く手を握られる。それに握り返しながら私は深く深く頷いた。  あなたのことを大切にするよ。あなたがその権利をくれるなら。
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