神と共に舞う

1/1
前へ
/14ページ
次へ

神と共に舞う

 クニグンデが、構える。それを境に、ざわついていた大衆が静まり返っていく。  舞が始まると、その場の空気が様変わりした。  クニグンデが手を振る度に、足を動かす度に、髪を揺らす度に、ただの町中が静粛な大社へと姿を変えていく。  クニグンデは、当然大社など知らない。  なのに何故、あの静かで壮大な空気を、これほどまでに再現できるのだろう。  一方で、クニグンデの舞は明らかに異質だった。  一つ一つの動きが大きくて、つい目で追ってしまう。ころころと変わる表情は豊かで、まるで神と語らって、共に踊っているかのようだ。  おおよそ、神に捧げる舞ではない。大社の皆が見たら激怒していただろう。  だけど、その弾むような舞から目を離せない。いや、目を奪われているのだ。  こんな舞、私は知らない。見たことも無い。 (あぁ、そうか――)  クニグンデは、楽しんでいるのだ。  神に捧げる舞という言葉から、神と共に舞い踊る様を思い描いて。  神とは威厳に満ちていて、壮大で、首を垂れて敬うことが当たり前だと教えられてきたし、私もそうだと信じてきた。  でも、それは人間の思い描いた『神』だ。  考えてみれば、神話の神々は常に神らしく振る舞っているわけではない。  天照大御神(あまてらすおおみかみ)天岩戸(あめのいわと)から引きずり出すためとはいえ、天宇受賣命(あめのうずめ)は裸体に等しい姿で踊るし、その踊りで日本中の神々が笑ってはやしたて、塞ぎ込む女神の傍らでどんちゃん騒ぎを繰り広げるではないか。  神様だって、羽目を外すのだ。常に敬われたいわけじゃない。  クニグンデは、それすら見越して舞っているのだろうか。 (……いや、さすがにそれはないか)  クニグンデは、ただ、純粋に楽しんでいるだけだ。崇めるよりも、一緒に踊る方が楽しいから、そうしているだけだろう。  死ぬまで踊り続けてもいいくらいと言うくらいに、踊ることがただただ好きで仕方がない。その上、技術も経験もあるときた。  ずっと大社の中で育って、守られてきて、踊りを大社勧進の道具としか見做していない私が、はなから敵うはず――――  ふと、頭に記憶が過った。  舞い踊るクニグンデに、幼い頃に見た巫女の姿が重なっていく。  ずっとずっと小さい頃だ。大社の鍛冶師を務める父にあやかって、舞台袖から巫女たちの舞を見たことがあった。  美しいと思った。  同じ人とは思えなかった。あたかも天女が舞い降りてきたかのように見えた。  彼女たちが織りなす舞に、幼い心はあっという間に魅了された。 (あぁ、そうだ……)  思い出した。あの夢現のような舞を見て、私は巫女になりたいと思ったんだ。  自分も、あの美しい舞を踊りたいと――――  人々の喝采で、クニグンデの舞が終わっていたことに気が付いた。終わったことに気付かないくらい、心を奪われていたのだ。 (負けたな)  不思議と、不快な感情は一切なかった。  むしろ、清々しいとすら思えた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加