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神と共に舞う
クニグンデが、構える。それを境に、ざわついていた大衆が静まり返っていく。
舞が始まると、その場の空気が様変わりした。
クニグンデが手を振る度に、足を動かす度に、髪を揺らす度に、ただの町中が静粛な大社へと姿を変えていく。
クニグンデは、当然大社など知らない。
なのに何故、あの静かで壮大な空気を、これほどまでに再現できるのだろう。
一方で、クニグンデの舞は明らかに異質だった。
一つ一つの動きが大きくて、つい目で追ってしまう。ころころと変わる表情は豊かで、まるで神と語らって、共に踊っているかのようだ。
おおよそ、神に捧げる舞ではない。大社の皆が見たら激怒していただろう。
だけど、その弾むような舞から目を離せない。いや、目を奪われているのだ。
こんな舞、私は知らない。見たことも無い。
(あぁ、そうか――)
クニグンデは、楽しんでいるのだ。
神に捧げる舞という言葉から、神と共に舞い踊る様を思い描いて。
神とは威厳に満ちていて、壮大で、首を垂れて敬うことが当たり前だと教えられてきたし、私もそうだと信じてきた。
でも、それは人間の思い描いた『神』だ。
考えてみれば、神話の神々は常に神らしく振る舞っているわけではない。
天照大御神を天岩戸から引きずり出すためとはいえ、天宇受賣命は裸体に等しい姿で踊るし、その踊りで日本中の神々が笑ってはやしたて、塞ぎ込む女神の傍らでどんちゃん騒ぎを繰り広げるではないか。
神様だって、羽目を外すのだ。常に敬われたいわけじゃない。
クニグンデは、それすら見越して舞っているのだろうか。
(……いや、さすがにそれはないか)
クニグンデは、ただ、純粋に楽しんでいるだけだ。崇めるよりも、一緒に踊る方が楽しいから、そうしているだけだろう。
死ぬまで踊り続けてもいいくらいと言うくらいに、踊ることがただただ好きで仕方がない。その上、技術も経験もあるときた。
ずっと大社の中で育って、守られてきて、踊りを大社勧進の道具としか見做していない私が、はなから敵うはず――――
ふと、頭に記憶が過った。
舞い踊るクニグンデに、幼い頃に見た巫女の姿が重なっていく。
ずっとずっと小さい頃だ。大社の鍛冶師を務める父にあやかって、舞台袖から巫女たちの舞を見たことがあった。
美しいと思った。
同じ人とは思えなかった。あたかも天女が舞い降りてきたかのように見えた。
彼女たちが織りなす舞に、幼い心はあっという間に魅了された。
(あぁ、そうだ……)
思い出した。あの夢現のような舞を見て、私は巫女になりたいと思ったんだ。
自分も、あの美しい舞を踊りたいと――――
人々の喝采で、クニグンデの舞が終わっていたことに気が付いた。終わったことに気付かないくらい、心を奪われていたのだ。
(負けたな)
不思議と、不快な感情は一切なかった。
むしろ、清々しいとすら思えた。
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