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1.真理、子供時代の記憶
子供の頃の記憶というのは案外残っているものだ。特に私の場合、鮮烈に残っている記憶がある。あれは私が保育園の年長さんだった時のこと。父が亡くなった翌年の夏だった。
(お母さん遅いな)
いつもなら時間に遅れることなく迎えに来てくれる母が姿を見せない。
「真理ちゃん、お母さんお仕事遅くなっちゃったのかな? 先生お電話してみるね」
不安そうな私を見て先生はそう声をかけると奥の部屋に入っていった。
(今夜はハンバーグだって言ってたなぁ。楽しみ)
そんなことを考えつつぼんやり外を見ていると雨が降り出した。静かな雨音にいつの間にかうとうとしてしまう。
「真理ちゃん、お迎え来たわよ」
先生の声にパッと顔を上げる。だがそこにいたのは母ではなかった。
「お婆ちゃん……」
近所に住む父方の祖母だ。扇子でパタパタと仰ぎながら私のことを見下ろしている。当時は知らなかったが祖母ご愛用のこの扇子は白檀という香木から作られた高価なものらしい。祖母が扇子を動かす度に独特の香りが辺りに漂う。私はこの匂いがどうにも苦手だった。……祖母のことも。
「ほら、お婆ちゃんがお迎えに来ましたよ」
ニッと笑う祖母はまるで童話に出てくる魔女のようだった。梅干しみたいにシワシワなのに目だけはギラギラと異様な光を放っている。高そうな着物に身を包んだ祖母は「行きますよ」と声をかけ私の手を取った。冷たくざらりとしたその感触に思わず手を振りほどく。
「やだ。私、お母さん待ってる」
祖母は眉間に皺を寄せる。
「我儘言うんじゃありません。佳代さんに食事の支度も頼んでありますからね」
佳代さんというのは祖母の家で働く家政婦さん。三年前に祖父は亡くなりそれ以来祖母は家事を家政婦さんに任せ大きな家に一人で住んでいる。
「いい鯛が入ったからってお魚屋さんが持ってきてくれてね、今日は鯛の煮付けですよ」
祖母は得意げに言うが私はそんなもの食べたくない。だって今夜は大好きなハンバーグ。
「どうしてお母さん来ないの?」
愚図る私を怒るかと思いきや祖母はニタリと嗤う。ああ、やっぱり魔女だ。
「お母さんはもう来ないの。真理ちゃんは今日からお婆ちゃんと暮らすのよ」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。お婆ちゃんと暮らす?
「ほら、行きますよ。ああ、この子はもうここには来ませんから。お引越しするの。手続きなんかはまたお電話しますわ。ではご機嫌よう」
最後の方は先生たちに向けて発せられたものだった。
「さ、真理ちゃん行きますよ」
私は強引に手を引かれ保育園から出るとタクシーに乗せられた。あまりのショックに涙はおろか声も出ない。こんなの嘘だ、と心の中で何度も何度も繰り返すばかりだった。だが数日後、祖母は私を連れ本当に引っ越した。大きなお屋敷を売り払って買った瀟洒なマンションの七階に。こうして私と祖母二人の生活が始まった。
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