1

1/1
前へ
/1ページ
次へ

1

  私はまた夢を見る。  昔に別れた恋人の夢をだ。マボロシだとわかっている。けど彼は昔と変わらずに笑う。私に優しく話しかけてくれる。 『……万葉(まよ)。元気にしていたか?』  低めだけど穏やかな声。私は答えられずに俯く。彼は心配そうにして近づいてきた。頬に触れようと彼の手が届くか届かないか。そんな時に意識が浮上し始めた。真っ暗闇に落ちていくような。そんな感覚がして夢は終わりを告げたのだった――。  チュンチュンと雀の鳴く声にカーテンから洩れ出る朝特有の日の光によって目が覚める。ピッピッピッと鳴るスマホのアラーム音を消そうと起き上がった。サイドテーブルにあるスマホを手に取る。画面を指で操作してアラームを消した。 「……ふわぁ。今日も霧夜(きりや)の夢を見たなあ。何でだろう」  つい、眠い目をこすりながら呟いた。ベッドから降りるとスマホで時刻をチェックする。  まだ、朝方の6時頃だ。今日は土曜日だから会社は休みだ。二度寝しようかと思うが。仕方ないので洗面所に向かう。まずは歯磨きをしてシャコシャコとブラシを動かす。鏡をなんとはなしに見た。ちょっと瞼やほっぺたがむくんでいるような気がする。夜更しはしていないのに。そう思いながらも無心でブラシで磨き続けた。  洗顔も済ませてからパジャマ代わりの白い猫の柄が入ったシャツと黒い短パンを脱いだ。クローゼットを開けて薄いグレーの半袖のシャツに黒い長ズボンを出す。手早く着替える。クローゼットを閉めてキッチンに向かう。  まずは朝食作りだ。食器棚からお皿やマグカップ、スプーンなどを出す。冷蔵庫からは食パンや卵、ベーコンに昨日に買っておいたポテトサラダ、バターなどを出してキッチン台に置く。食パンはオーブントースターを開けて金網の上に乗せる。扉を閉めて目盛りを5の位置まで動かす。フライパンをキッチン棚から出してコンロにかけた。ガスの元栓を開けて点火した。少し経ってフライパンが温まったらサラダ油を少し垂らす。フライ返しで広げたら卵を割り入れる。2個ほどそうしたらベーコンも横に置く。弱火にして水を入れて。蓋をする。  待っている間にマグカップにインスタントコーヒーの瓶を開けてスプーンで中身を入れた。蓋を閉めたら砂糖を追加する。電気ポットのボタンを押して適量を入れて。最後に冷たいミルクを入れたらカフェオレが出来上がる。その時にチィンとトースターの音が鳴った。  扉を開けて中の焼けたパンを取り出す。トングでだが。お皿に盛り付けると手早くバターを塗る。そうしてベーコンエッグも上手い具合に焼けたので水を捨ててからお皿に盛り付けた。  ポテトサラダの容器をテーブルに置く。お皿やマグカップも置いたら椅子に落ち着いた。フォークを手に取って両手を合わせる。 「……いただきます」  そう言ってからパンを齧った。うん、美味しい。バターの香りがまた良いなあ。次にカフェオレを飲んだ。ベーコンエッグもまた美味しいし。最後にポテトサラダも食べた。私は朝食をガッツリ食べたい派で昔からそうだった。 「ちょっと友達の依子を誘ってカフェに行こうかな」  独り言ちて言いつつも朝食を食べる。舌鼓を打ったのだった。  身支度や準備を終えてからスマホで依子に電話してみた。今は午前九時頃だ。 「あ。もしもし。依子?」 『……うん。私だけど』 「いきなりでごめんね。今日は土曜日だし。もし良かったら一緒にカフェにでも行かない?」 『カフェかあ。いいよ。で、何時頃にする?』 「うーん。じゃあさ。午前十一時ぐらいならどうかな」 『十一時かあ。わかった。その時間までには行くよ』  待ち合わせの時間が決まると依子は電話を切った。私もスマホを待ち受け画面に切り替える。十一時になるまで待った。  カフェに向かうためにアパートを出た。踵が低めのパンプスをコツコツと鳴らしながらアスファルトの道を歩く。今はお出掛け用にと夏場なので白いノースリーブのシャツに淡いオレンジ色のカーディガン、茶色の透け感のあるロングスカートというコーディネートにしてみた。ちなみに小さなショルダーバッグに耳にはシルバーのシンプルなピアス、胸元はダイヤモンドのネックレスを身に付けている。ちょっと張り切りすぎたかな。そう思いながらもカフェまで歩いたのだった。  やっと十一時頃にカフェにたどり着く。既に依子は来ており入口から右手側にある窓際の席にいた。ドアを開けるとカランカランと取り付けられたベルが鳴る。 「……いらっしゃいませ」  カフェのマスターらしき女性が声をかけてくれた。年齢は三十代だろうか。肩まで伸ばした茶色の髪を後ろで束ねて程よくメイクもしている。シンプルなブラウンのシャツに黒いスラックスを着ていた。ブラウンと同系色のエプロンをつけていて小洒落たカフェの雰囲気に溶け込んでいるようだ。  ちょっと上品な感じもして好感を持てる。そう思いながらも窓際の席に行く。依子が気がついて右手を振ってくれた。急ぎ足で向かう。依子は向かい側に座っていたので対面する側に腰掛ける。 「遅れたかな。待たせてごめんね」 「そんな事はないよ。あたしが早く来すぎただけだから」 「……依子。来てくれてありがとう」  お礼を言うと依子はびっくりしたのか目を見開いた。 「……いきなりどうしたの?」 「えっと。何か言いたくなったというか」 「まあ、いっか。それより座ったら?」 「うん」  依子に勧められたので向かい側の席に腰を降ろす。少ししてからマスターの女性がオーダーをしにやってきた。 「ご注文は決まりましたか?」 「……私はカフェオレと木苺のタルト。万葉は何にする?」 「私は。同じくカフェオレとレモンのタルトでお願いします」 「カフェオレ2つと木苺のタルトが1つ。レモンのタルトも1つですね?」 「「はい」」 「……わかりました。少々お待ちください」  マスターはそう言うと厨房の方に行った。私は持ったままだったショルダーバッグを席――椅子の背もたれに引っ掛かた。 「ここのカスタードタルトは絶品らしいよ。秋になったら梨のタルトも売るんだって」 「へえ。梨かあ。食べてみたいね」 「……万葉。さっきから思ってたんだけどさ。何か顔色が良くないよ」  依子にズバリ言われて私は驚いた。ファンデーションの下にはコンシーラーを塗ったのに。チークもして分かりづらくしたんだけど。そう思っていたら依子は心配そうに見つめる。 「……万葉。最近、何かあったの?」 「……依子は昔から勘が良いよね。  実はね。最近、変な夢を見るようになって」 「変な夢ね」 「うん。毎夜、昔に付き合っていた彼氏が出てくるの。依子も知っていると思うけど」 「昔に付き合っていた彼氏がね。ちょっと怖いかも」  依子はそう言うとブルッと肩を震わせる。確かにそうだろうな。私は意を決して彼氏――霧夜の名前を告げた。 「……その彼氏はね。4年前に別れた霧夜、前原霧夜さん。その人が出てくるの。最初は名前を呼ばれるくらいだったんだけどね」 「……えっ。霧夜さん?!」 「どうしたの。依子」  彼の名前を聞いた途端、依子はさっと顔色が青白くなった。どうしたのだろう。不審に思いながらも依子の返答を待った。 「……万葉。悪い事は言わないから。霧夜さんの事は忘れなよ。もし良かったら神社にでもお祓いに行ってみたら?」 「……依子?」 「あのね。万葉には言いにくいんだけど。霧夜さんはもう何年も前に亡くなっているの。確か、交通事故だったかな」  キリヤガナクナッテイル?  依子が告げた言葉に理解が追いつかない。どういう事なの。 「……あたしの旦那は知っているよね。(はじめ)って言うんだけど。旦那が霧夜さんとは高校以来の親友だったんだけど。まあ、それは置いといて。霧夜さんはね、あんたと別れてすぐに交通事故にあって。そのまま亡くなったのよ。今から4年前になるかな」 「どうして依子がそれを知っているの?」 「……旦那と一緒にあたしもお通夜とお葬式に行ったの。本当は万葉にも知らせたかったんだけど。あんた、別れたばっかりだったし。言うのも憚られたのよ」  依子がそう言う。ちょうどこの時にマスターがトレーに注文した品を乗せてやってきた。 「ご注文の品をお持ちしました。カフェオレと木苺のタルトのお客様は……」 「あ、私です」 「では。こちらになります」  マスターは依子の分のカフェオレとタルトを彼女の前に置いた。その後で私の分を同じように置いてくれる。 「「ありがとうございます」」 「……はい。ごゆっくりどうぞ」  2人でお礼を言うとマスターは微笑んで軽くお辞儀をしてくれた。しかもちゃんと返答付きでだ。静かに奥へと去っていった。 「……依子。霧夜が亡くなったのは4年前のいつ頃だったか覚えてるかな?」 「……そうだなあ。確か、秋頃だったはずだよ」 「成程ね。その頃からだったような気がする。霧夜の夢を見るようになったの」  私が考え込むと依子はカフェオレを一口飲んだ。ソーサーに置くとおもむろに椅子の背もたれに引っ掛けていたバッグを手に取る。チャックを開けてガサゴソと探り出す。そうして取り出したのは一枚の白い紙切れのようだった。 「……万葉。これね、あたしが以前にお世話になった霊能事務所の所長さんの名刺なんだ。もし良かったらここに行ってみて」 「え。そんなにまずい事なの?」 「そりゃそうだよ。霧夜さんが成仏できてない可能性が高いように思うの。悪霊になっちゃったら。そうなってからだと手がつけられなくなるよ」  依子は妙に詳しく説明をする。私は半信半疑だったが。とりあえずは名刺を受け取ってショルダーバッグの中に入れた。その後、依子と雑談を楽しんだのだった。  自宅もとい、アパートに戻りドアの鍵をバッグから出して開けた。鍵やチェーンを閉めてパンプスを脱ぐ。そのまま、リビングのソファーにバッグを置いた。ふうとため息をつく。テーブルの上にある拭くだけコットンでメイクをざざっと落とした。洗面所に行き、背中まで伸ばした髪をヘアゴムで一束ねに括る。後ろで纏めたらヘアバンドで前髪を上げた。そのまま、洗面台の蛇口を捻る。バシャバシャと何度かぬるま湯で洗う。後でメイク落としを顔全体に塗り込んだ。くるくると円を描くようにしながらファンデーションなどを浮かしていく。再びぬるま湯で濯いだ。何度かしたらタオルを取って水気を拭き取る。終わったあと思いつつもタオルを洗濯機の上に置いた。寝室に行き、カーディガンやワンピースを脱いだ。普段着用の白いシャツにグレーのズボンに着替える。靴下は履かない。  私はお腹が減ったなと考えながらキッチンに行ったのだった。  簡単にチャーハンやかきたまスープを作って夕食をすませる。流し台にて使った食器を洗う。カチャカチャという食器が触れ合う音に水が蛇口から出るザーという音だけがキッチンに響く。お箸を洗ってお茶椀にお皿、マグカップやスプーンと洗剤がついた物を濯いだ。不意に背後に何かの気配を感じる。けど我慢して濯ぎを続けた。全てを終えると蛇口の水を止めた。椅子の背もたれに引っ掛けてあるタオルで両手を拭く。さっきのは何だったのだろう。疑問に思いながらもキッチンを出た。  お風呂に入り髪をドライヤーで乾かす。完全に乾いたらブラシで梳いた()。そうしてから顔にお化粧水などを塗り込んだりした。が、背中に気配や誰かの視線を感じ取る。ぞくりと肌が粟立つ。無視をしながらなんとかお手入れを終えた。ヘアピンを外して手櫛で簡単に髪を直す。既にパジャマに着替えているので洗面所を出て寝室に向かった。ドアを閉めて持ってきたスマホで目覚ましアラームを設定する。ドアの近くにあるスイッチを押して部屋の照明を消した。サイドテーブルにある小さなライトだけになった。ベッドに上がって布団をまくり中に入る。疲れているのかすぐに眠気はやってきた。気がついたら深い眠りについていた。 『……万葉。今日は危ない。左原さんに注意されたのを忘れたのか?』  不意に霧夜の声が頭に響く。目を開くと暗闇に薄っすらと青白い何かが浮かんでいた。それはよく見ると背の高い男性のようだ。私は驚きのあまり固まった。 「……ひっ。誰?!」 『……万葉。俺がわからなくても仕方ないか。霧夜だよ』 「え。霧夜なの?」  私が問うと青白い何かはこちらに近づいてきた。よおく見ると顔が見える。目を見て確かにわかった。薄いグレーの瞳は霧夜のものだ。実は霧夜はイギリス人と日本人とのハーフだった。なのでよく覚えていた。 『万葉。ちょっとこの部屋には良くないモノがいる。俺だけだともう守れない』 「……良くないモノ?」 『ああ。明日になったら左原さんが紹介してくれた先生の所に行ってくれ。今日に名刺をもらっていたよな?』 「……うん。もらったけど」 『じゃあ。必ず行ってくれな。でないと万葉が本当に危ないから』  仕方ないなと思いながらも頷く。霧夜は安心したのかふうとため息をついたらしい。ふっと苦笑いしたようだ。 『……左原さんは前からお前にヤバいのが取り憑いているのをわかっていたんだ。それで俺に頼んできた。万葉だから引き受けたんだけどな』 「そうだったんだ。明日になったら早速行ってくるよ」 『そうしてくれ。じゃあな』  霧夜はひらひらと手を振りながらすうと消えた。私は名刺をどこにやったっけなと思いながら眠りに再びついた。  翌朝、私はスマホのアラーム音でいつものように目が覚めた。あ、霧夜に昨夜言われたんだった。早速、思い出すとショルダーバッグを探す。昨日にソファーの上に置いていたのに気がついて寝室を出た。リビングに行くと確かにソファーの上にある。チャックを開けて名刺を探した。 「……あった」  ポツリと呟きながらも一枚の名刺を取り出した。幸いにもショルダーバッグの内側のポケットに入れてある。名刺をよく見たら初谷(はつがや)霊能事務所と書いてあった。依子が勧めてくれた所だとすぐに思い出す。行ってみよう。そう決めてから身支度を始めた。  お出かけ用のシャツとズボンを着てベージュの帽子を被る。いつものショルダーバッグに必要な物を入れた。軽くメイクもしてから名刺を片手にアパートを出る。初谷霊能事務所を目指して歩いたが。私のアパートから一番近い駅に行った。切符を買ってから改札口に向かう。差込口に切符を入れたらゲートが開く。さっさと歩いて再び出てきた切符を取って電車乗り場がどこか探した。名刺をよく見ると隣町である小日向町と書かれている。切符には五駅先の廣口行きとあった。廣口なら小日向町内。とりあえず、ここで降りてみるか。ため息をつきながら廣口行きの電車の二番乗り場に行ったのだった。  電車が来たので乗った。ガタンゴトンと揺られながら座席に腰掛けた。ぼんやりと景色を眺める。乗客はまばらで静かだ。そうして眠気がやってくるが。必死に戦いながら五駅先に着くのを待った。 『廣口〜。廣口で〜す』  独特な車掌さんの声で一気に眠気は吹き飛んだ。慌てて名刺と切符を落とさないように気をつけながらも降りた。再び、改札口を目指して歩く。たどり着くと行きと同じく切符を差込口に入れて駅を出た。  てくてくと歩きながら霊能事務所の看板を探した。廣口駅から歩いて十分は経ったろうか。初谷霊能事務所と書かれた看板を見つける。入口にガラス製のドアがあった。それの取っ手を持ち、自分側に引いて中に入る。恐る恐る声をあげた。 「……すみませーん!あの。どなたかいらっしゃいませんか!」  そう言ってみるとガタンと音が聞こえる。少し経ってから「はーい」と間延びした低い声が答えた。奥から黒縁メガネをかけた中年とおぼしき男性が出てくる。くたびれたワイシャツに黒のスラックスという格好だが。 「……ああ。お客様でしたか?」 「……えっと」 「こんな暑い中で話をするのも何ですし。お入りください」  私は「はい」と言ってドアを閉めて中に入る。男性はどうやら霊能事務所の人らしい。 「……とりあえず、そちらのソファーにでもお掛けください。何か飲み物を用意しますね」 「……あ。お構いなく」 「はあ。そうですか」  男性はそう言うと向かい側のソファーに座った。私も同じようにする。 「……それで。うちにいらしたのはどのようなご用件でしょうか。お聞かせ願えますか?」 「……はい。ちょっと最近、変な夢を見るようになりまして」 「夢ですか。あ、名乗るのが遅れました。俺は初谷霊能事務所の所長で初谷 一汰(いちた)と申します。以後お見知りおきを」 「……所長さんだったんですか。私は尾口 万葉といいます。今日は友人から紹介してもらって。それで来ました」 「ああ。ご友人の紹介だったんですか。えっと。続きをお願いします」  中年男性――初谷所長に促されて説明を続けた。まずは別れた恋人が夢に毎度出てくるようになった事や友人にその恋人が亡くなっていたのを聞いた事、その日の夜には恋人の霊が出てきて警告された事までを話した。すると所長はふうむと考え込んでしまう。十分程しておもむろに彼は口を開いた。 「……成程。確かにこれは一大事ですね。実は気になっていたんですよ。あなたの背後に髪の長い白いワンピースの女性がいたのでね」 「えっ。それは本当ですか?!」 「ええ。あなたの隣に前原さんだったかな。男性の霊が立っているのが見えます」  そうなんだ。驚きのあまり、所長が指さした右隣を凝視する。けど何も見えない。 「普通は幽霊は見えない物ですから。それよりも。今から除霊をしますね。準備をするのでしばらくお待ちください」 「……除霊をしていただけるんですか?」 「はい。前原さんのお言葉の通り背後にいる霊は危険です。すぐに払う必要があります」  所長は頷くとそのまま奥に行ってしまう。私はしばらく待ったのだった。  所長は数珠や経本、お札などを持って戻ってきた。彼の傍らには白いシャツにベージュのスラックスがよく似合う背の高いすらりとした女性がいる。年齢は二十代半ばくらいで私とそう変わらないようだ。 「……尾口さん。こちらは俺の助手で広田 小海(こうみ)さん。では。除霊を始めますね」 「初めまして。初谷所長の助手で所員の広田です」 「初めまして。尾口 万葉と申します」  一通り挨拶をすると所長と助手の広田さんはそれぞれに数珠や経本、お札を持つ。両手を組んで人差し指を立てるポーズで所長がお経らしき呪文を唱え始めた。広田さんも同様にする。 「……急々如律令。彼の者を祓い給え、清め給え!」 『……ぐっ!』  何か女性が呻くような声が聞こえる。すうと背の高い男性が私の背後に立つ気配がした。振り向くと薄いグレーの瞳にちょっと猫っ毛の黒髪を短く切り揃えたかなりの美男がにっこりと笑っていた。 『……やっとまともに会えた。万葉』 「……霧夜。亡くなっていたのに。お葬式にも行かなくて。本当にごめんなさい!」 『泣くなよ。万葉がこれ以上傷つくのを見るのも忍びなかったしな。だから左原さんやダチの創には秘密にしてくれって頼んだんだ』  霧夜はそう言うと私の右頬に顔を近づける。ひんやりとした柔らかな感触がしてキスをされたとすぐに気がついた。霧夜ははにかむように笑って私をそっと抱きしめる。 『……万葉。別れても俺はお前がやっぱり好きだ。生まれ変わったらまた会いに行くよ。待っててくれ』 「……うん。私。待ってるよ」 『初谷さん、広田さん。万葉を助けてくださってありがとうございます。もうあいつは祓えたみたいだし。さようなら。万葉』 「……さようなら。霧夜。今まで守ってくれてありがとう」 『……ああ。またお墓参りにでも来てくれな』  私は小さく手を振った。霧夜はふわりと宙に浮かぶと笑顔で手を振りながらすうと消える。私はその場にしゃがみ込んで泣き崩れた。側には広田さんが来て無言で箱入りのティッシュを手渡してくれる。頷いて何枚か取ると目元を拭いたのだった。  霊能事務所を後にする。初谷所長や広田さんには除霊の代金を支払っておいた。一回で終わったので一万円もかからない。安いなと思いながらもてくてくと歩いた。気分はすっきりだ。お盆になったら依子や旦那さんの創さんと三人で霧夜のお墓参りに行こう。そう考えながら空を見上げる。夕暮れ時特有のオレンジ色やピンク色の混じった綺麗な夕焼けだ。鼻の奥がツンとなるが。それを我慢しながら自宅に急いだのだった。  ――完――
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加