旅の終わり

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旅の終わり

■ 1  虫の飛ぶ音、鳥のざわめきで目が覚めた。目の前には例の天井はなく、雲はないが、でも寂しげに広がる薄暗い空があり、横には手入れされていない木々が生い茂っていた。そこにはもう塔はなかった。横には塔に持ち込んだ僕の荷物が丁寧に置かれていた。固いコンクリートや小石の上にあおむけに寝そべっているようで、それが後頭部や肘にあたり痛い。  立ち上がりあたりを見渡すとそこは古い建物の屋上のようだった。コンクリートはところどころ大きなひびが入り、隙間からは雑草が元気に生い茂る。脇には錆びた鉄の階段がありツル化の植物が巻き付きかわいい花を咲かせている。正面には小さな木の机に小さな何かが置かれている。見た瞬間、それは遠くからでもすぐにわかった。    「おじいちゃん。ああ、おじいちゃん・・。やっぱり・・・。うううぅ・・・。」  予感が確信となった瞬間、すべてが僕を包み重圧で動けなくなった。全身が震え、膝の力がすべて抜けるとともに机に頭から崩れ、汗と涙で溢れた。鳴き声が風でざわめく森の中へ音とともに吸い込まれていった。    おじいちゃん・・。    おじいちゃんは僕が浪人生の時に病気で亡くなった。僕の第一志望の大学の2度目受験の日は、そう、大雪だった。おじいちゃんはその数ヵ月前から入院していたようだが、受験への影響を考えて両親がそのことを隠していた。試験が終わり帰ってきたその日におじいちゃんの状況を教えてもらい慌てて家族で田舎へ帰った。病院で見たおじいちゃんはまさにミッションの時の状態だった。そうあれはおじいちゃんだった。そして最後の日に泣いて手を握ったあの手は、あの頃の僕の手だ。あんなに苦しみながら、あんな思いをしながら僕のことを待ってくれていたのだろうか。  僕は子供のころからおじいちゃんが大好きだった。おじいちゃんも僕を特別可愛がってくれた。近くの親戚の子は女の子ばかりで、動物や虫が大好きなおじいちゃんにはあまりなつかなかったようだ。良く釣りに行っていたが、餌のアオイソメも近くの川で自分で砂を掘って調達していた。そういうところに小さな女の子たちは抵抗があったのだろう。とてもやさしく、田舎に帰るととても嬉しそうにしてくれて良く遊んでくれた。近くの動物園や水族館によく連れってくれて動物についてのあれこれをいろいろと教えてくれた。動物が大好きで海の生き物から小さな虫に関してまでとても詳しかった。特に、大好きだったのがウミガメで、この机にあるウミガメのキーフォルダーはおじいちゃんがお守りにと僕に買ってくれたものだ。なぜウミガメなのかの理由は良くわからない。僕はこのキーフォルダーを数年前に無くしてしまった。もちろん大事にしていたのだがどこを探しても見当たらずその時は自分を責めた。    お祖母ちゃんは先に病気で亡くなったため晩年は一人暮らしだった。自宅で最期を迎えたいという本人の希望がありデイサービスを受けながら自宅で生活している聞いたことがある。晩年に、近くの野良猫が良く遊びに来てその面倒を見るのが少し生きがいになっているということを聞いたことがある。僕はその猫を見たことがないが確か名前が付いていた。クロタロー、クロマル、のようなクロから始まる名前だった。「この猫が生きているうちはわしも死ねん。」と言っていたようだが、その猫はおじいちゃんが老衰で少しずつやせ細ってきた頃に、突然おじいちゃんのもとに来なくなったそうだ。猫は死ぬときに良く自分の姿を隠すという。おじいちゃんの前に猫が寿命を迎えたのだろうか。なお猫が姿を消す数日前、おじいちゃんの洗濯物の中にネズミの死体が置かれていたらしく、それも見つけた時に、悲鳴をあげて転び怪我をしたと包帯を巻いていたデイサービスの人が葬式のときだったかに話っていた。    おじいちゃんは僕にはとても優しかったが、僕の父はとても厳しい人だったと良く漏らしていた。戦火の中運よく生き延び、戦後の仕事も相当苦労したらしい。僕の父が、子供の時にとても厳しく勉強、運動、生活態度などしつけられたらしく、父は子供の頃おじいちゃんが大嫌いだったと言っていた。そんな父も自分が大人になった時におじいちゃんの教えがあったからこそ助けられた時があったと言っていた。でも父は子供の時の恐怖が忘れられずなるべく僕には厳しくせずに育てたとも言っていた。そういえば、おばあちゃんは昔、変なのに絡まれていたところをおじいちゃんが助け、それがきっかけで結ばれたという武勇伝を聞いた記憶がある。おばあちゃんもそれを聞いていた時は嬉しそうに、また恥ずかしそうに笑っていた。和美ちゃんのミッションはそれだったのかもしれない。うちの両親が恋沙汰が大好きで、僕が和美ちゃんと付き合ってたことを勝手に探りそれをおじいちゃんにも喋ったのだろう。そして写真などを勝手に盗み撮りして入手し見せていたのかもしれない。なんという両親だ。今思い出したが、和美ちゃんと連絡が取れなくなり、僕がしょんぼりしていた時にうちの母が急に見たい映画があるから一緒に見に行こうと誘ってきて無理やり韓流の恋愛映画を見させられたことがあった。僕にとっては趣味に合わず恐ろしく苦痛な内容で地獄だった。やはり両親は知っていたのであろう。    これも思い出したが、うちの父がおじいちゃんの家に遊びに行ったときの夕食の時に「俺も若いときにはバイクで自分探しの一人旅をしたもんだ。」と話した事があって、それを聞いていたおじいちゃんが「世の中、平和になったもんだ。何が自分探しだ。お前はそこにおるだろうが。意味が分からん。」と言っていた。おじいちゃんの時代は、そんなことを考える暇もなく生きることだけで精一杯だったのだろう。おじいちゃんは確かに父と会話をするときは僕には使わないような厳しい口調だった気がした。でも僕もおじいちゃんに一度だけ厳しい口調で言われたことがある。中学の陸上をやめた時だ。  「すぐにあきらめるな。そんなにすぐに結果など出るわけがないだろう。ずっとずっと全力で努力し、やっと分かるもんだ。そしてそれはたいてい最高の結果ではないが、そんな中でとても小さなものでも何かが掴めればそれでいいだろう。」  そんな言葉だった。でも中学生の僕は聞く耳を持たず、なんとなく怒られただけと思いただただへこんでいた。    ずっと、ずっと、僕の神様は僕の事を見守ってくれていたのだ。    やがて夕日の光があたりを照らした。僕はウミガメのキーフォルダーを手に包み胸に当て、空を見上げ、今は無き塔に向かって大きくお辞儀をした。乾いたコンクリートに数粒の涙が落ち、乾いて消えた。 ■2  さび付いた階段を降り、上に数日積もった枯れ葉や枝、ホコリをさっと払い車に乗り、暗い中を夜通し運転し帰宅した。    現実では当然のごとく僕の事は問題になっており、家族や会社からいろいろと問いただされた。もちろん本当のことを話したって誰も信用はしないので、気が病んで遠くに逃亡していたとか適当な説明をしてごまかした。覚悟はしていたが、もちろん仕事は想像通りの運びとなった。期待してなかったが会社は当然の如く冷たく、温かい言葉など皆無であった。数少ない同期に近い友人達が飲み会を開いてくれた。そこで、たまたま僕の上司、そして派遣先のプロパーのことを知っている友人が「良く、あの人たちと一緒に何年も我慢できたね。尊敬するよ。」と声を掛けてくれたことは僕にとって少しの救いとなった。    そして今は一度自宅に戻りやり直すべく準備している。    おじいちゃんは、きっと僕にエールを送ってくれたんだと思う。動物達も頑張っているのだからお前も頑張れと。そして女性の一人でも助けられるようになれと。入院のミッションはもしかしたら僕にお礼を言いたかったのか。しかしながらその期待とは裏腹に、僕の心にはペット達の現状、入院中の延命の経験、その2つの矛盾する命の存在が深く重く残った。空いた時間を使って詳しく調べてみた。  ペットの現状についてはもう何年も前から問題視され、動物愛護法が長い年月をかけ少しずつ改善されているようである。その問題を受け止め、ペット業界でも独自に規制を設けたりして努力している企業もあるが、いまだ悪質な業者が存在するようである。動物愛護法の改正だって、経済だの、政治だのが絡み、相当揉めてやっと改正されたようだ。そして今でも減ったとはいえドリームボックスの中で最期まで泣き続けながら命を奪われていく犬、猫たちが存在する。  また興味本位で、数日にわたり近くの公園の野良猫に餌をあげてる人たちを片隅に隠れ観察してみた。餌を与えたのち掃除などもしっかりする人がいる反面、ただ餌を与えあとはほったらかしにする人もいた。なるほど猫の言う通りだ。    ある日の公園で、まだ生まれて間もない小猫がじゃれあって遊んでいるのを見た。きっと去勢ができなった猫達から産まれたのだろう。不幸な命、そんなものがあってはならない。調べていて外国人が「犬、猫をただ殺処分するのだったら食べるから譲ってくれ。骨なども肥料として使うから譲ってくれ。」と言うので譲ったという話を見つけた。これをどう考えるべきなのか。    延命治療についてもこれも問題視されていた。調べていると「尊厳死」「リビングウイル」などの言葉に出会った。安楽死もこの国では許されていないが外国の一部地域ではあるようだ。それらの国、地域でも何年も議論を重ね、そのうえで安楽死が許される法ができたようだ。この問題は調べれば調べるほど複雑な問題であることが分かった。法律、医者、人、何が悪いのかわからない。そしてこの国では問題視されておきながら、なかなか解決のための議論は進んでない模様だ。思うのは、人は生きることと同じく死ぬことについても責任を持ち考えなければならないということだ。  おじいちゃんの最期までの状態について改めて両親に聞いてみた。うちの父もなかなか仕事で会えなかったようだが、誰かしら毎日のようにおじいちゃんの様子は見ていたようだとの話だった。(あれ、ミッションの状態と違う・・・?)あんな状態でずっと寝たきりで見ていて気の毒だったとも話していた。本人も望んでいなかっただろうと。塔での最後の日、おじいちゃんが僕の事を待っててくれたのではと思ったが、あとで絶対にそんなことはありえないと考え直した。実際に自分の死期が来てみないとわからないことで想像することしかできないが、あんな状態の命を望む者なんていないと思うし、あんな命を故意に作ることなどあってはならないと思う。    今も僕は窓際の机に向かってコツコツと勉強している。そう、もっと強い意思を持てるように。  部屋の出窓には、昔、おじいちゃんと一緒に田舎の海で遊んだ時の写真の前に、カメのキーフォルダーと近くの雑貨屋で買ったトゲゾウに似た黒い猫の置物、そして紙で作った手作りの円柱型の塔が飾ってある。写真の中の僕は右手に小さなカニを持って笑っている。夕方、出窓に夕日が当たり長い塔の影を見ると、あの猫が初めて僕に寄り添って気持ちよさそうに寝ていたあの日のことを思い出す。  
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