玉多海の塔

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玉多海の塔

■1  田舎の山道をコンパクトカーで駆け抜けている。中ではヘビーメタルが爆音を散らしている。大好きな激速ナンバー。はっきりとしてわかりやすいリフが大好きな曲だ。英語なので歌詞の意味はよくわからない。時折、中学校で習ったような単語、fire、burn、don't cryなどが耳に入ってくる。単純な意味なのだろう。ボーカルが極限まで叫び、ツインギターがお互いの音を主張しながらバトルし、ベースがうねりをあげ全体を包み、ドラムが隙間なくそれでいて正確に叩かれる。命を削るかのような演奏を聴いているだけで気持ちよくなる。  この山を突っ切るこの県道をずっと進めばまた海の国道に出る予定だ。雑誌に小さく載っていた夕日がきれいに照らしている海に浮かぶ岩の神秘さに心を惹かれ、それだけを見に来た。別にその岩でなくったっていい。都心では見られない自然にあふれる、広大できれいな景色、それが見れればいい。きっと少しはこの嫌な気持ちを洗ってくれるだろう。今、走っている木々に囲まれた道もとてもいい。地図、カーナビを見る限りコンビニもないし、観光スポットも全然見当たらない。たまに小さな看板に「**の滝」のような看板があるので車を停め見てみると、ちょろちょろと水が流れている。これを滝と呼んでいいものなのか。何でもいいからなにかスポットを作りたいと考えている地元の人の気持ちが垣間見える。それほど何もない。ここから、あと20キロほと進むと道の駅が一つある。最近の道の駅は野菜の直売場、フードコート、お土産屋などが充実していて立派なものだが、直近に立ち寄った道の駅は良くわからない民芸品が飾ってあるだけで、あとはトイレと自動販売機しかなかった。その民芸品館だって誰一人おらずやっているのかどうか、勝手に見ていいのかすらわからない。こうやって走ってても対向車とすれ違うことだってたまにしかない。    会社は風邪と偽って休んだ。実家から通えないような派遣先に突如派遣され一人暮らしをすることになったのが2年前。もうあんなところでパソコンに向かって毎日を過ごすのはうんざりだ。別にプログラミングが嫌なんじゃない。派遣先のプロパー社員のクズと一緒に派遣で来ている同会社のクズ上司が気にいらない。プロパーのクズは忙しすぎてほとんどオフィスにはいない。だから普段何をしていればよいのかわからない。クズ上司に聞いてもわからないと言う。担当が違うからプロパーに聞かないとわからないらしい。僕に与えられた担当のシステムは辞めた前任から引き継いだものだが、その前任だってこの派遣先に2か月しか居なかったらしく、業務を引き継いで欲しいと伝えたら「引継で欲しい事項を一覧でまとめて欲しい。そしたら引継ぎできる。」などと言ってきた。しかも最後の3週間は派遣先に出社すらしなかった。  そんな状況なのにプロパーからは電話で急に、「この機能はどうなっているんだ。すぐに調査して修正しろ」と指示がくる。最初はこの機能がコーディングされている言語の経験すらなくコンパイルの方法すら分からなかった。この間の指示についてもできる限り調査したが、やはりどこをどう修正すればよいかわからない個所があったので上司に聞いてみたが「プロパーに聞かなきゃわからない」と言われ、プロパーがオフィスにいた瞬間を捕まえて質問した。忙しく迷惑そうなそぶりを見せつつ回答してくれたが、質問を4つほどしたときにプロパーは急に怒り出し  「町田さんはシステムエンジニアですよね。いちいちこんなこと確認しないとできないのですか?」  などと言ってきた。後日、上司にも「引継ぎはどうなっているんだ」と怒りの連絡があったとのことだが、その上司は「うまく説明しておいたから。まあ後日パブにでも接待して宥めておくよ。」などと言っていた。それが今回の不明点に対する解決策なのか。頭に血がのぼる。    名前も知らないシステムの利用者からも良く苦情の連絡があった。  「システムが止まって動かない。早く来て対応してほしい。」  と初めて問い合わせがあった時はどこに行けばよいかも分からず、プロパーに確認したいがなかなか捕まらず、やっと捕まえて行く場所を確認し急ぐが、来るのが遅いと利用者はカンカンに怒っていた。端末には見たこともない画面が映し出され、確かに動かない。こうなったら電源を切るしかないがどのように動作するプログラムなのか、電源を切ったことによってパソコン、データが壊れないかが不安だ。でも隣でカンカンに怒っている利用者がいて今にも手が出そうだ。仕方なく電源を切り起動すると意味の分からないエラーメッセージが出た。開き直り、OKボタンを押し起動すると何とか起動した。「何とか直りました。」と伝えるとお礼も言わず、作業に移る利用者。後日、見慣れないエラー通知メールが来ているとプロパーから呼び出され説明を求められ、対応が雑だ、意識が足りないなどと怒られた。この画面自体は別の会社が作ったものでソースコードなどもその会社が管理している。だったらそっちに問い合わせればいいだろと思うが、問い合わせ窓口は自分らしい。意味の分からないエラーメッセージをその会社にメールで問い合わせるのだが、その会社もいい加減で2日後にログファイルを送って欲しいなどと返事が来て、そのログファイルを送り再度依頼するとその1週間後にわかりませんでしたと返事が来る始末だ。  急に会議に出て欲しいと指示される場合もある。会議の趣旨も何も伝えられず出ても意味が分からない。これも後で説明を求められるが「よくわからなかった」などと伝えると、「無能だ」と伝えたいであろう言葉をシャワーのように浴びせられる。上司も怒られるらしく、あとで呼び出されたかと思うと「これも勉強だから・・・」などと慰めの言葉をかけてくるが、何もしないお前は何なんだと思う。そして、意味の分からなかった会議で決定したらしき開発を急に依頼され、残業続きの日々が続く。僕の様子が気になるらしく、上司は定時後も隣で何もせず座っている。付き合って面倒を見ているつもりだろう。ちらっと上司の画面を覗き見ると、本日の野球の試合の途中経過を見ている。何も役に立たないのだから帰って欲しい。目障りだ。  この間無理やり飲みに誘われ2人で話したとき「若手にはのびのびやってもらいたい。ミスした時は俺が責任を取る。」などとほざいていた。意味も分からないところに急に派遣され、毎日が不安でのびのびなどできるわけがない。毎週、会社に出勤するのが嫌で布団から出るのも辛いときがある。でもいつの間にかオフィスの椅子に座っている自分が嫌になってくる。ずっと座っているのが嫌で、吸いたくもないタバコも始めた。喫煙所で時間をつぶすことできる。喫煙所の窓際で外の海を眺め煙をふかしながらいつも「辞めたい、辞めたい」って思う。それは逃げなのか。負けた人間の思考なのか。前職からの転職の時も同じようなことを考え、結果、転職を選んだ。「逃げじゃない。進んでいるんだ。」などと自分に言い聞かせたが、結局逃げた結果がこうなったのか。    社会人になって、自分は何がしたいのか全く分からなくなった。こんなことのために今まで生きてきたのか。行きたくもない場所に毎日行き、クズに囲まれながらわけのわからない作業をし、人間否定されながら生きていく。自分が何なのか分からなくなってきた。生きる意味も分からず死にたくなってくる。もう逃げでもなんでもいい。負け犬と思われたっていい。もう一度自分を見つめなおしたい。今後、僕はどのように生きていくのが一番幸せなのか考えたい。自分探しの旅だ。 ■2  会社から帰ると、数日の着替えと最低限の準備だけをしすぐに車で飛び出した。夜な夜な車で走り、適当なパーキングエリアで一晩を過ごし、翌朝はこの地域で有名な神宮に立ち寄り100円を放り投げ神様に自分の道が見つかりますようにと祈った。それからぽつぽつと観光スポットを見学し、目的の海に浮かぶ岩に向けて山道に入り進んだ。今は午後3時くらい。気持ちよく音楽にのりドライブしながら、時折また会社のことを思い出し頭に血が上る。  狭くぐねぐね曲がった狭い道が続いたが、少しすると広く視界が開けた直線的な道になった。十字路に青看がある。右に曲がった先に「玉沢ダム」とある。ダムがあるということは少なからず湖がある。しばらく運転しっぱなしだったし湖でも見て休憩しようと右折した。道はまた狭く、曲がりくねった山道に入った。  少し行くと、「玉沢ダム駐車場」と書かれた木の看板が目に入った。ダムに駐車場?このあたりでは結構大きなダムなのだろうか。違和感を覚えつつ駐車場に車を停め外に出てみる。砂利でできた5台くらい停車のできる広さの駐車場だった。すぐに下り坂の階段通路があり「玉沢ダム」と書いてある。その右にも木で作られた上り階段があり、また小さく看板がある。    「玉多海の塔」  塔だって。こんなところに。なんだかすごい名前の塔だ。下にご丁寧にひらがなで「たまたみ」と振り仮名まで書いてある。  「塔か。少し見てみるか。」  独り言を小さくつぶやきながら木の階段を上ってみる。観光スポットで塔ってあまり聞いたことがない。しかもこんな山奥に塔なんて何のために建てられたのだろう。階段を上りりきると、また道が少し続き、進むとその先には塔の入り口らしきものがあった。あたりは木々で囲まれており、いつの間にか霧で覆われていて塔の上のほうは良く見えない。お寺にある三重塔のようなものを想像していたが、そこにあったのは少し汚れた黄土色の石、または土で造られた円筒の塔だった。塔についてあまり詳しくないが情緒あふれる立派な塔に見える。ガイドブックに載っててもよさそうだがあっただろうか。  入り口には、古汚い小さな小屋があった。受付のようだ。中には誰かいるようだ。  「すみません。」  「はいはい。見学ですか?おひとり様550円になります。」  年寄りの女性のようだ。古い小屋は薄暗く女性の手しか見えない。外観を見るだけにしては高めの入場料を払うと「どうぞ」と通された。塔正面には大きな扉があり、閉まっている。少しの間、壁を触りながら塔の周りを見物していると、女性から  「扉を開けて中にどうぞ。」  とマイク越しに伝えられた。塔の中に入れるのか。このような塔はなかなか中に入らせてもらえないと思っていたが。塔正面の鉄でできた扉についた少し錆びついている茶色の輪っかを握り手前に引き、扉を開け恐る恐る中に入る。意外にも中は電灯がついていて明るい。ところが、前には古い襖があるだけであとは何もない。田舎にある普通の一軒家の玄関のようだ。名前、外観、中の雰囲気がどれも合致していない。いったいなんなのだ。  「あとは、中にいる案内係が案内しますのでごゆっくりどうぞ。」  と言うと、先ほどの女性は外から扉を閉めてしまった。女性の片足と片手だけが少しだけ見えたかと思うと鉄と鉄の当たる金属音が塔内に響きわたった。  「えっ、おい。」  あまりにも不気味で身の危険を感じた。早く出て帰ろう。  不意に寒気が走った。右奥のほうで何か動いているような気配がしたからだ。恐る恐る覗き見るとそこには黒い猫がちょこんと四つ足で立っていた。やせ型のどこにでもいるような猫だ。鍵尻尾のようで、尻尾は良く見えない。少しくらいせいか目が光って見えた。  「猫か。この塔で飼っているのか。」  その猫はじーっとこちらを見ている。ちょっと撫でてやろうと思い近づこうとすると、猫は素早く少し体を後傾に構えた。これ以上近づくと逃げるつもりなのだろう。猫に表情はないがとても警戒しているようだ。  「なあ。他に誰かいないのか。案内係がいるって言ってたけど。」  猫に聞いたってどうしようもないのは理解している。でも不安でしょうがない。もしかするとこの猫が案内係で喋るかもしれない。アニメや漫画の世界ならよくある話だ。猫はまだ警戒してこちらを注視している。良く思われてないのであろうと思い、少し猫から離れる。  「そうだ。あまり近づくな。前に扉があるだろう。その奥に進め。」  「えっ」  全身に寒気が走る。周りには猫以外にいる様子もない。スピーカーなどがあるわけでもない。猫が本当に喋った。  「今、お前が喋ったのか?」  「そうだ。扉を開けて奥へ進め。」  声変わり前の小学生のような高い可愛らしい声で言う。いよいよおかしくなってきた。奥に誰かいるのだろうか。恐る恐る猫と襖を交互に見ながら襖に手をかけ横に静かに開き奥の部屋へと進む。8畳ほどの畳の部屋だ。また正面に襖がある。左右にも同様の襖がある。他には畳の中央に座布団が一枚、右手奥に古びた木のクローゼットがある。何なのだ。この塔の中にしては不自然もいいところだ。狭いスペースに階段があるだけを想像していた。部屋の広さも外からみた塔の大きさよりはるかに広く感じた。 ■3  猫は素早く襖の脇から部屋に入りいつの間にか部屋の右奥のクローゼットの上にいる。そしてまたこちらを見ている。  「ねえ。この塔はいったいなんなの?」  猫はクローゼットの上から身を屈め、顔だけ出しこちらを覗き込む。  「正面にまた扉があるだろう。それを開けて進むとある課題がある。それをやると塔の上の階へ行ける。そして最上階までたどり着くとご褒美がもらえる。」  「はあ?」  課題だって。それをやれと言うのか。あまりにも不気味だ。嫌だ。  「ご褒美って何さ。」  「知らない。でもお前なら間違えなく大泣きして喜ぶものだ。」  泣いて喜ぶだって?僕が泣いて喜ぶものなんて思いつかない。  「それって。君でも喜ぶもの?」  「知らない。でも俺はあんなものいらない。」  知らないって言っている割にはしっかりと感想を述べている。知っているな、この猫。猫にとって不要で人が泣いて喜ぶものと言ったらことわざにあるあれしか思い当たらない。これは神様が僕にくれたチャンスなのか?それにしても、どうしよう。あまりにも不気味だ。  「大丈夫だ。課題は途中で止めてもいい。」  「課題って。どんな課題なの。」  「知らない。中に入るとそこに書いてある。」  じっと正面の襖を見る。どうしよう。これに入ったら最後、永遠にこの世界に戻れなくなるなんてことあるのだろうか。  「そんなに怖がらなくてもいい。変なものじゃない。」  いや、どう考えても変だろ。お前が喋っていること自体がすでに変だって事がわからないのか。変なのに変じゃないって言われるとますます気持ち悪くなってくる。どうしよう。襖を凝視し将棋棋士のように長考に入る。少ししてから右上を見ると、猫は丸くなって寝始めていた。  よし、一度だけやってみるか。これで変だったらもう帰ろう。意を決して正面の襖を開き中に入る。猫がちらっとこちらを見たが、すぐさま顔を引っ込めまた寝始めた。    中は薄暗く狭い部屋になっていた。正面左には小さな机があり、その上に紙が一枚小さな明かりに照らされて置かれている。机の奥にはまた襖がある。周りは暗く良く見えない。後ろを振り返ると閉めた覚えがないのに入ってきた襖が見えない。寒気と恐怖に襲われる。恐る恐る小刻みに足を動かし机まで近づき、紙に書かれた文字を見る。  「ミッション:生き延びろ」  見た瞬間、ぞっとした。何なのだ、この課題は。ちょっと待ってくれ。課題をクリアしなければ死ぬと言うことか。急に鼓動が激しくなり冷や汗がだらだらと流れる。全身が震え寒気に襲われる。  「ど、ど、どど・・どうしよう・・。」  また襖を凝視し長考する。入ってきたほうに戻り襖を探すが見つからない。一方通行ってことか。もうこのミッションとやらをするしか道がないのか。  最悪、ここで死ぬのか・・・。自分の死なんて考えたことない。風邪ひいた時、お酒を飲んで吐いた時、残業続きで仕事した時、「このままじゃ死んじゃう」と思ったことはあるが、本当に死ぬことなんて考えなかった。自分がここで死んだとしたらどうなるんだろう。家は、親は、仕事は・・。  「少し、襖をあけてチラ見してみるか。それでミッションの内容を盗み見れば対策が取れて少しは生存率が上がるはず。」  いい考えだ。殺されるようなミッションを何の対策もせず正面から受けて死ぬほうが馬鹿げている。当然の行為だ。汚いもくそもない。  「よし、行こう」  冷や汗を袖で拭い、目を大きくつぶり、深呼吸をし、襖に近づく。そっと手を伸ばしほんの少しだけ力を加え静かに襖を開ける。その瞬間、奥から眩いまでの光が辺りを覆いつくし全身が光に包まれる。あまりの眩しさに目を閉じる。   ■4  気が付くと辺りは、薄暗い群青色に覆われていた。  周りには、白に茶色が混ざったような色の小さな球体が無数に浮かんでいる。なにか繊維らしきものも浮かんでいる。それらは同じ方向に揺られ、静かに漂う。よく見ると無数の球体のいくつかは小さく動いているように見える。  上のほうから少し光が差し込んでいる。月明りか。音がない。ノイズキャンセリング機能のついたヘッドフォンを耳に押し付けているかのようだ。体は宙に浮いているかのような感覚を覚える。身動きは取れるが、自分の手足、形の確認ができない。他の球体と同じ方向に上下左右に揺られながら一緒に漂っている。なんだか気持ちがいい。    何事かわからず、身を任せて周りのそれらと一緒にしばらく揺られ漂っていた。するとなにやら奥のほうが黒い影で覆われてきた。薄暗い群青色が徐々に黒い闇に包まれていく。その闇はどんどんと拡大し、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。やがて僕の周りもすべて黒い闇に包まれていった。  「・・・・」  気が付くと、8畳の畳の部屋に横になっていた。ミッションに向かう前のあの部屋だ。周りを見ると、先ほどの木のクローゼットがあり上では猫が気持ちよさそうに寝ている。何だったのだ。これでミッションは終わったのか。クローゼットの近くまで来て上にいる猫に話しかける。  「ねえ。おい。おいったら。なんだったの、あれは。」  猫は手で目をこすりこちらを半開きの目で睨みつけるようにこちらを見る。  「知らない。」  「知らないって、本当は知ってるんでしょ。あれは何だったのさ。ミッションとやらはあれで終わりなの?」  猫は少し明後日の方向を見つめたのち  「ミッションは失敗だ。」  と答えた。  「失敗って何さ?生き延びれなかったってこと?」  「知らない。ミッションの内容は本当に知らない。」  「知らないわけないじゃないか?あんたが案内役なんだろう。」  表情ではわからないが、明らかに、うるさい、迷惑だなあ、と言いたそうな態度でこちらを見つめている。  「ちょっと何なんだよ。教えてくれてもいいだろう。」  「どんなんだった?」  「なんか、薄暗いところに小さい白い丸いのがいっぱいいて、そこに浮いて漂っていて、それで影に覆われていった・・・。」  猫は大あくびをし、自分の股座をぺろぺろと舐めたのち  「ちょっと、そっちに離れてくれ。」  と言ってきた。仕方なくクローゼットの反対側にさがり距離を取ると、猫は8畳部屋の右のほうへ降り、器用に襖をあけ奥の部屋へと出て行った。  やがて猫は奥の部屋から戻って来て器用に襖を閉めると言った。  「カニだ。」  「はあ?」  「カニの産卵だ。」  何を言ってるのだか意味が分からない。  「どうするんだ。ミッションは何度でもチャレンジしていいぞ。」  「えっ」  ますます意味が分からない。  「カニの産卵ってなんだよ。ミッションはなんで失敗なの。ただ漂ってただけだよ。」  「知らない。」  「知らないって今、調べてきたんでしょ。」  「だからカニの産卵だよ。影はそれを食べにきた魚か何かじゃないのか。」  「僕はカニの卵で、魚に食べられたからゲームオーバーってこと?なんなんだよこのミッション。どうすることもできないじゃないか。」  「知らない。運が悪かったんだろう。」  そういうとまた猫はクローゼットの上に戻り、大あくびをしてまた寝ようとしている。なんだか腹が立ってきた。でも、ふと自分の手足を見て、顔に手を当てて五体満足なことを確認する。ミッションに失敗しても安全なようだ。あまりにも不思議だが簡単なバーチャル体験ゲームのようなものと思って良いだろう。運か。あの影みたいなのが近づいてきたら逃げれば良いのだな。よし、もう一度行ってみるか。なぜか少しやる気になってしまった。    再度、正面の襖を開け中に入る。机には同じく「ミッション:生き延びろ」と書かれている。深呼吸し、襖を開けるとまた眩い光に包まれる。    また同じだ。暗い群青色の世界だ。先ほどは気が付かなかったが言われてみれば海の中の世界だってことがわかる。波の揺れに合わせて漂っている。周りの丸い物体をよく見るとやはり動いている。カニには程遠い形ではあるが、これが孵化したばかりのカニの幼生なのだろう。  さて、闇はどこから来るか。それを見つけ逃げればいいのだ。  しばらく漂っていると右の奥のほうで大きな影が動くのが見えた。かなりの大きさだ。あの形見たことがある。ジンベイザメか。あんな大きな体のくせにこんな小さな幼生を食べにくるのか。  その影は左のほうへとゆっくと去って行った。  1回目とは様子が違うようだ。上のほうを見ると小さな影もぽつぽつあり幼生をパクパク食べている。自分がいるところよりも結構上のほうだ。今のところ自分は安全のようだ。  ジンベイザメは左のほうへ去っていったし、上のほうに行かなければ大丈夫そうだ。念のためなるべく右のほうへ移動し逃げよう。などと思っていた矢先に、左斜め奥のほうが徐々に闇で覆われてきた。早く逃げなくては。必死にばたばたと手足と思われるものとばたつかせるが、まったく移動している気がしない。波の力に押されるがままに漂うことしかできない。左奥から巨大な闇が迫る。  「うわあ・・・」  巨大な闇は僕から少しだけずれ左下を通過していく。通過した海水の勢いで体が大きく上下左右に揺さぶられる。助かったのか。  と次の瞬間、あたりが真っ暗になった。    「・・・・」  気が付くと、8畳の畳の部屋に横になっていた。目の前に古ぼけた茶色の木の天井が見える。どうやら失敗したようだ。  後ろから襲われたようだ。身動きも取れない状態で上下左右から襲われる。相当運が良くなければ成功しないのではないか。    もう一度だけやってみよう。それでだめなら諦めよう。  ちらっと猫のほうを見ると変わらず気持ちよさそうに丸まって寝ている。馬鹿にされているようで気分が悪い。    再度光に包まれる。  目を見開いた瞬間、今度はそこがすでに黒い闇に包まれていた。  「嘘だろ・・」  体をバタつかせる。あたりが闇で覆われるがやがて闇はまた薄暗い群青色の世界へと変わっていった。どうやら天敵は自分の頭上を通過したようだ。  闇の通過の勢いで少し後方に押し出された。後ろを振り向くと闇が遠くへゆっくりと去っていくのが見えた。遠くの脇には別の魚が幼生達を一飲みにしているのが見える。お願いだから来ないでくれと祈る。  それからまた数分間、暗い群青色の世界で左右に漂っていた。他の幼生もくねくね動いてはいるが先ほど同様漂っているだけだ。このままただただ漂っているだけなのだろうか。ここで生き残れるのか、死ぬのかは本当に運だけの世界だ。無防備で何もできない。ただ、これだけ無数の幼生が全て食べつくされることもない。たまたま生き残ったものだけが大人になる権利を与えられる。  上のほうを眺めると、波に揺らめく半月が小さく見える。昔、上弦と下弦があると習った記憶があるがどちらなのだろう。満月ではないが美しい。優しく海を照らしている。しばらく静寂に包まれた幻想的な空間で気持ちよく漂い続けていた。そして30分くらいしただろうか。あたりがふと暗くなった。    「・・・・」  8畳の畳の部屋で目を覚ます。最後まで襲われなかった。  起き上がりクローゼットをコンコンと叩く。ビクッと猫が起き上がる。  「ねえ、今のは成功かい?」  猫は右の手の甲を舐め顔を洗う。それから上のほうを見つめてから  「ああ。成功みたいだ。良く成功したな。」  と言った。何をしたわけではなくたまたま成功しただけだ。胸を張って威張れることではないが、しかし少しだけ嬉しかった。 ■5  「では上の階へ行こう。左の扉を開けて進め。」  何の無駄話もなく早速指示してくる。また命令口調なのも癇に障る。しぶしぶ言われるがままに左の襖のほうへ歩を進めゆっくりと開けてみると、なんとそこには小さなエレベーターがあった。灰色のマンションにあるようなそれよりもすこし気持ち小さめのエレベーターだ。  「上ボタンを押してそれに乗れ。」  唖然として言葉が出ない。言われるがままにボタンを押すと、ごく普通に扉が開いた。扉や中の様子を確かめながら、ゆっくり乗ると猫も素早く脇から乗ってきた。そして自分の対角線上に立つ。何だか今度は警戒しつつ怯えているかのようだ。  このエレベーターは普通のエレベーターと違い階数のボタンも階数を表す表記もなくただ上下のボタンがあるだけだ。興味本位で下ボタンを押すが点灯はしない。上ボタンを押すと扉が閉まり、エレベータが上るときの独特の重力感を感じた。少しするとエレベーターは止まり扉が開き、それと同時に猫は逃げるように外に出て行き、正面の襖を開け部屋へと入っていった。僕も続けて入ると、先ほどと全く同じような和室8畳の部屋となっていた。いや同じようなというよりか全く同じ部屋だ。    「次の課題をやるなら、こっちの扉だ。もし明日にするならこっちで泊まることができる。」  猫は正面の襖、右側の襖の順に首を傾ける。  「泊まるって、ここで宿泊できるの?」  「そうだ。こっちに行けば泊まることができる。生活環境も整っている。」  複雑な気持ちだが、車の中で寝るつもりで宿も予約していないし、向こうの部屋がどうなっているのかも興味がある。昨日も車の中で寝てそれからずっと運転していて疲れているのもありお言葉に甘えることにした。  「じゃあ、休ませてもらえるかな」  「そうか。勝手に入っていいぞ。」  言われるがままに、襖を開けてみるとそこはリゾートマンションのようなワンフロアの部屋となっていた。入ってすぐに右にはユニットバス、左にはクローゼットがある。中を見ると下着や寝間着が準備されている。正面はとても広く、左手奥にはベッド、右手には冷蔵庫にキッチンまでついている。左奥の脇にはなぜだかランニングマシンが置いてある。右奥にはまたクローゼットが置いてあり、上には座布団がある。猫の寝場所か。周りは一面壁だが、正面には小さな窓が付いている。  「ひ、広いなあ。この塔どうなってるの?」  塔の外観を見る限りこんなスペースが作れるわけがない。手前の8畳の部屋だけだったとしても不自然だ。  「知らない」  「ねえ、外には出れるの?」  「それはできない。食事は冷蔵庫やキッチンの下に入っている物を勝手に食べていいぞ。」  冷蔵庫を見ると、ペットボトルの水やお茶、チーズ、ベーコン、牛乳、野菜まで入っている。冷凍庫には冷凍食品が敷き詰められている。キッチンの下にはカップラーメン、レトルト食品、缶詰、お菓子がある。お菓子は子供が喜びそうな駄菓子もあり、缶詰には猫用のものもある。冷蔵庫脇には米櫃と炊飯器があるのでこれでご飯が食べれるようだ。キッチンからは水も出る。IHもついているので簡単な自炊も可能だ。可能であれば数日間これで生活することができる。  今何時なのだろう。この寝室に時計がない。時間を調べるべくリュックの中のスマートフォンを見てみると18時半過ぎほどだ。案の定、電波は届いていない。  「ねえ。充電器とかはあるの?」  「そんなものない。」  コンセントはあるが、充電器を車に置いてきたままだ。スマートフォンは明日には使えなくなるってことか。  「本当に泊っていいの?追加料金とか発生しないのかい?」  「大丈夫だ。自由に使っていいぞ。」  そう言うと猫は音もたてず寝室から出て行った。
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