2

5/5
前へ
/46ページ
次へ
 フィットネスジムは一見、繁盛している。だがその実、忙しいのはキャンセルを受けた事後処理、キャンペーンの営業活動、無料モニターの対応ばかりだった。要するに、忙しいだけで儲けに繋がらない。スタッフ人員は少しずつ減ってきており、無駄な忙しさに追われる日々となる。  (逃げられない)  ふっと脳裏に浮かぶことがある。その都度、すぐに善意に満ちたポジティブがそれを打ち消し、自分の中に浮かんだ否定的感情は、ほとんど思い出すことができないほど目隠しされる。    瀬川大翔は、T市にあるフィットネスジムの副店長を務めている。店長はあちこちに出ており、店にいることはほとんどない。それはつまり、この店の責任を瀬川が負わされていることに他ならなかった。  瀬川が副店長になった時点で、店は下り坂に入りかけている模様だった。その時瀬川は、どうしてこの店はこんなに要領の得ないことをしているのだろう、無駄が多いうえに、スタッフにさせる細かい仕事が多すぎて、しかも、そのどうでも良い小さなことができていないからといって、お局風を吹かすパワハラスタッフがあちこちに潜んでいて、なんて風通しが悪いのだろうと内心思っていた。しかし、それを口にすることは、どうもできなかった。店長の尊大さが、すべてのスタッフの口をふさいでしまっていた。  「和を保てない人は、どこにいっても駄目です。どんなに仕事ができても和が保てない人は、うちにはいりません」  新人が入る度、必ず店に顔を出す店長。店長は大柄で筋肉質な女性である。優し気で感じの良い雰囲気、にこにこと絶やさない笑顔と「みんな仲が良いですから」「無理なく続けられるよう最大限サポートします」といううたい文句につられて、フラフラと入社してくる。そして、次第に現実を知る。その頃には既に仕事の中に組み込まれ、どうにも逃亡できないような立ち位置に立たされている。そのくせ、あちこちからダメ出しが来て、数えきれないほど細かな「覚えなくてはならないルール」ができていないと言って、毎月のミーティングや「改善シート」という、日々のあれこれの問題を書きだしてゆくリストに名前を伏せた状態でーー最も、そんなことをしても意味はないのだがーーあげつらわれるのだった。  「これは嫌がらせでも意地悪でもないんです。ああ、こんなことがあるんだ、ワタシも気を着けなくちゃね、と気を引き締めるための話し合いですから」  と、店長は言う。まるで新興宗教の法話のようにスタッフはその言葉を胸に刻む。そして、その言葉を葵の紋所がわりにし、できていない新人のあれこれを、ひとつひとつあげてゆくのだ。  女性の多い職場だ。  瀬川はそういう環境に向いている。感じの良い笑顔、優し気で落ち着いた喋り方、清潔感溢れる様子。女性は幸せそうな男性を好む。瀬川は自分を幸せそうに見せる術に長けている。  スタッフは瀬川を慕っている。瀬川に悪意のベクトルが向くことはない。そのかわり、スタッフ同士の精神的なしのぎあいは激しいのだろう。女は仕事に少し慣れると、あれもこれも細かくルール化したいものだ。そうして「覚えなくてはならないこと」が増えてゆき、次に入ってくる新人が地獄を見るのだった。  新人が定着しないのが、この事態を招いている。瀬川には分かっている。だけど、どうしようもない。瀬川は淡々と、本店から指示がくるキャンペーンを打ちだしたり、来客する太った初老の婦人方をもてなしたりする。とてもスマートで、仕事をてきぱきこなしているのは誰の目にも明らかだ。  だけど、店はうまくいっていなかった。  (上梨の中で、薬品工場の流れ作業の仕事でも見つけようか)  これも、最近ふっと浮かぶことがある。  少なくとも、今の支店が長く続くとは思えなかった。  今日、瀬川は休みだ。不定休なので平日に一人でゆっくりできるのは、有難かった。フィットネストレーナーの妻としては言い訳がたたないほどぽちゃっとした体形の妻は、娘のさくらが小学六年生になった時点でフルタイムのパートを始めた。小さな薬品会社の、錠剤の選別作業をしているらしい。朝の七時半には家を出てしまう。さくらは家の施錠をし、集団登校のリーダーとして通学する。  六年生だから、かぎっ子といっても、不憫な感じはしない。むしろさくらは、そういうのが合っている。淡々と自分のことを片付け、スマートにこなしてゆく。  (俺に似たんだろう)  テレビでは、上梨で起きた子供の失踪事件が報道されている。未だ見つからない、とか、白い車の不審者の情報がある、とかいう深刻そうなナレーションが耳の前を通り過ぎる。  失踪。六年。夏。じいわじいわと蝉が鳴いている。  瀬川は、この気味悪さはどこから湧いてくるのか分からない。なにか思い出せそうで、思い出せない感触。  そして、うちの子も今、小学六年だ。上梨小学校六年だ。失踪した女子も上梨小六年と言わなかったか。  「さくら、このいなくなった子、友達か」    さくらがのんびりと二階から降りてきた。あれ、支度をしていないなあ、と、瀬川は意外に思う。この時間だと、いつもならランドセルを背負っているはずだ。  はっとした。そうだ、休みに入っていたのではないか?    「早瀬花音のこと。うーん、話位はしたけれど、深くは付き合ってないかな。性格悪すぎて引いちゃうから」  残酷なほど簡潔に、さくらは言った。  へえと、瀬川は相槌を打った。ショートパンツとタンクトップ姿のさくらは、子供から脱皮しかかっている。まぶしいほどほっそりと白い体をしている。敏捷な性質も瀬川に似たのだろう。毎年、運動会のリレー選手に選ばれる。クラスでも人気のある方だと思われる。俺の子、さくら。  さくらが言うくらいだから、本当に性格が悪い子なのだろう。失踪した子には気の毒だが、それなりの理由があっての事態なのかもしれない。  「性格が悪いって。いじめでもしてるの」  と、瀬川は言った。そして、自分の放った言葉にドクンと胸が詰まった。  なんだろう、今、嫌な感触がしなかったか。自分の深いところで、三日月のように唇を笑みくずれさせた、誰かがーー知っている、けれど、知らない。誰だろうーー光る眼を開いた。  さくらは軽やかに歩き、テーブルにつくと、母親が出しておいてくれたトーストをかじりはじめた。  「いじめっていうか、何だろう、よくあるやつよ。ほら、どの学年にも必ずいるような、みんなを不愉快にさせる感じの子をね、チクチク言ったり、悪口を言いふらしたりね」  ドクン。  また、胸が鳴った。黒い血が逆流するような感覚だ。  瀬川はこれ以上この話題に触れないほうがいいと思った。にもかかわらず、さくらの方が喋り出したーーさくらは父親っ子だ、母親より父親と喋るほうなのだ。パパとお風呂にはいっていたのはつい最近までだ。どうやら六年になった途端に初潮をみたらしく、それ以来、さくらは瀬川と風呂にはいらなくなった。  「そりゃ、わたしだって嫌だなって思うけれど、ああいうのって本人にも原因があるっていうか。まあ、でも、すぐに中学に入るじゃない、そうなったら環境が変わるし、きっとそんなのなくなるわよ。それにさ、早瀬さんのウチって複雑で、なんかすごくストレスのかかる環境だって話だし、早瀬さんもかわいそうなんじゃない」  妙に大人びた口調だった。こんな話し方をするようになっていたのか、と、瀬川は驚いた。  さくらは一丁前に長い脚を組み、大人の女がワインでも飲むような優雅さでトーストを噛んでいる。  「へえ、じゃあ、早瀬花音ちゃんがいなくなったことで、今までいじめられていた子は楽になったのかな」  なんとなく瀬川は言った。あまり触れたくない話題なのに、どうしても気になっている。どうしてだろう、いじめとか、俺とは程遠い問題だというのにーーいや、本当に、本当にそうなのーー瀬川は愕然とする。今、心の中で沸き起こった問いかけは、一体なんなのだろう。  「そういうのって、次々に変わるもんじゃない」  さくらはするっと言ってのけた。  「汚いとか黴菌とか言われてた子は、ちょっと楽になったかもしれないけれどさ。なんか、今は、2組のほうで、悪口言われてる子たちが出てきてるみたい」  いなくなった早瀬花音のことを、悪く言っていたグループが、早瀬花音と仲の良いいじめグループに目をつけられたという。  「一時的なものだし、言われてる子も受け流してると思うけれどね。夏休み中に消えちゃうんじゃないかなー」  と、さくらは言う。  「悪く言うって、どこで。あの事件以来、学校は半日だったし休みも早く入ったじゃない」  瀬川は疑問が浮かぶままに聞いた。  さくらは一瞬食べる手をとめ、意外そうに振り向いたのだった。  「何言ってるのパパ。いまどき、SNSじゃない。裏サイトがあるのよ。そこ見たら、今、学校で誰がやられてるか一目瞭然なのよ」  (三十年、たったろう)    にやにやと笑う、「奴」が言う。瀬川は呆然と目を見張る。さくらは細い背中を向けて、トーストの続きを食べ始めている。じいわじいわ。蝉が鳴いている。  (三十年毎に、蘇る)  蘇る?  瀬川は、その得体のしれない何かの言葉に首を傾げる。そいつはにたにたと笑っている。誰だお前は、と、心の中で瀬川は問いかける。  「トモダチだよ」  そいつは答える。  瀬川は首を傾げる。はて、俺は一体なにを考えていたのだろうーーしかし、「それ」は、もう逃げられないほど近いところまで、みんなの背後に迫っていた。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加