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 岸辺久美は居心地の悪い思いをしていた。  いろいろと放り出して帰郷したのは、この地で気持ちを整理するためだ。心身を休め、自分と向き合う時間が欲しかったのかもしれないーー良い年をして、かなり衝動的なことをしてしまった、と、内心、久美は反省している。物事の渦中にいる時は、冷静なつもりであっても、自分自身を客観的に見ることなどできるはずがない。こうして自分のやらかしたことを味わうようになったのは、帰郷して何もしない時間を得たことで、少しは落ち着きを取り戻し始めているからだろう。  仮住まいの部屋は、すでに汚れ始めている。生活をするということは、まっさらの白い画用紙をベタベタと汚してゆくことだと思う。入居したての時は白い壁紙が眩しく、無機質に感じるほどなにもない空間だったのに、今はどうだろう。近くのホームセンターで見繕った安い小さなちゃぶ台には100均のマグカップが置かれ、飲み零しの跡があちこちについている。荷物を適当に突っ込んできただけのスポーツバッグは口を開き、衣類が部屋の角で積み重なっていた。アパートには洗濯機も乾燥機もないが、歩いて三十分のところにあるコンビニから更に十分ほど歩けばコインランドリーがあった。出入り口には古い自販機があり、夜になると切れかけたライトが点滅している。アマガエルがべたべた貼りつき、蜘蛛の巣がかかっているような代物で、ひとめであまり使われていない自販機だと分かる。久美は三日に一度、歩いてコインランドリーとアパートを往復する。そして体力が尽き、乾いた洗濯物を畳むことなく、部屋の隅に放置してしまうのだった。  (痩せたかもしれない)  ウォーキングの効果は馬鹿にならないのかもしれない。編集の仕事をしていた頃は、こんなに歩くことはなかったと思う。あんなに心身が疲れるほどの激務だったのに、体はぶくぶくと無駄な栄養をたぎらせていった。体感としては、骸骨になりそうなほどやせ細るほど苦労しているというのに、現実は三重あごとぶよんと飛び出した腹部、「大きいサイズ」の婦人服ばかり着なくてはならない体形である。  だが、上梨に帰郷してからさほど日がたっていないのに、腹の肉のさわり加減は、若干薄くなってきたように思う。    いらいらと、片付かない部屋を眺める。  この居心地の悪さは、放り出した仕事や男と別れてしまったことを思い出しているから、というわけではない。  頭の中に、数日前にきたメールのことがずっと残っているからだ。小学六年の時の仲間から来たメールは、久美に思い出したくもないことを色々と思い出させている。「嫌われ組」のことを嫌でも思い出してしまう。自分がその「嫌われ組」の一員だったことを、改めて認識してしまうーーああそうだ、「嫌われ組」、普通ならそんなグループには入らないのに、わたしはそのカテゴリに振り分けられていた。やはりわたしは特殊というか、他より劣っている、遅れている部分があるのだろう。その結果の、今の、このありさまだ。  モヤシの奴、なんだってメールを寄越したんだろう。  久美は分厚い唇をかみしめる。  なるほど、上梨に今、「嫌われ組」が全員揃っているのだとしたら、それは確かに凄い偶然かもしれない。普通の仲良しグループなら、故郷に全員揃っているみたいだから今度集まってゴハンでもしようよ、と連絡しあうのは理解できる。だが、久美たちは「嫌われ組」なのだった。  誰が「嫌われ組」と呼ばれたいだろう。  そんなこと、未来永劫ふたを閉めて、なかったことにしたいと思うのが人情ではないか?  (モヤシ、こんなふうに人の気持ちがわかんないから、嫌われ組なんだよ)  じれじれと思考は同じところをめぐる。不平不満ばかりだ。モヤシが連絡をくれなければ良かったのに、と心底思う。  おかげで上梨でゆっくり過ごそうと思っていたのが台無しではないか?  久美はそれでも、未練たらしくスマホを握りしめていた。心の中で、連絡を返すべきか無視すべきかと葛藤し続けているのも、認めがたかった。  少し風にあたって頭を冷やそう、今日は、朝起きてからずっとこのことばかり考えているではないか。昨日、コインランドリーからの帰り途中に寄ったコンビニで買ったコーヒーが生ぬるくなって、床に放置されている。それをとりあげてキャップを外しながら、ベランダに出てみた。外は晴れており、風が柔らかく軒下に踊りこんでいた。  じわじわと油蝉が鳴いている。  真下の道路はアパートの敷地内に飢えられた柿の木の枝葉に遮られ、ここからではよく見えない。時折賑やかな会話や、ばたばたと走ってゆく子供の気配がある。久美はあまり、人に自分を見られるのを好かなかった。だから、こうやって身を隠しながら相手の様子を探ることができるのは有難かった。  モヤシ。  プロフェッサー。  ゼローーああ、ゼロもいたなあーー久美はほんの僅かに懐かしくなった。モヤシとプロフェッサーのことは、あんなのみんなから嫌われて当然だと内心思っていた。そんなこと、本人に面と向かって言えるわけもないのだが。  「嫌われ組」の中で、唯一、友達と呼べそうなのは、ゼロくらいだ。あんまりにもあだ名で呼びすぎていて本名を思い出すのに時間がかかった、ゼロは確か、大山怜といったはずだ。なんで「嫌われ組」になったのかというと、能面みたいに表情がないのがキモイということで、「あいつは殺人犯の血統だ」とか、酷い言いがかりのような噂が飛び交った。そんなに無表情だったかな、と久美は首を傾げたくなる。久美の記憶にあるゼロは、確かに表情は乏しいが、小さな虫を窓から逃がしてやったり、転んだ仲間を無言で抱え起こすような優しさや頼もしさに満ちていた。     「嫌われ組」を作り上げたのは、田中香織が中心となった何名かの連中だ。  ゼロが「嫌われ組」に組み込まれたのは、もしかしたら田中香織の気に入らないことをしてしまったからかもしれなかった。どうして「嫌われ組」に入るはめになったのか、多分、ゼロ本人が一番よく知っているだろう。聞いてみてもいいな、と、薄っすら久美は思った。    少し気持ちが和んできた。コーヒーを口に含んだ瞬間だった。  ひらり、と、柿の枝の間から、ハニーイエローの服の端が見えた。買い物帰りの主婦だろう。横に、だいぶ大きな子供がいる。ちらり、ちらり、と、親子の姿が柿の木の間から僅かに覗いた。  なにか気になる思いで、久美は耳を澄ました。親子の姿かたちはよく見えないが、喋っている声音が記憶に残るなにかにひっかかったのだ。  母と息子だろう。夏休みの宿題について母は息子に問いかけており、息子はだらだらと、おそらくポータブルゲームを歩きながらしていた。ピコピコというゲーム音が薄っすらと聞こえている。  「ねえ亨、あんたそんなんじゃ二学期・・・・・・」  一瞬、母親の声が高くなった。その時、久美はコーヒーを取り落としかけた。フラッシュバックするかのように、かつて「嫌われ組」だった時の自分自身が蘇った。まるで今ここがアパートのベランダではなく、上梨小学校の六年の教室の前であるかのような、息詰まるような圧迫感を覚えたのだった。  親子はゆっくりと歩いて行った。  川中愛華。今の苗字がなんというか分からない。だが、当時、あいつは川中愛華といった。忘れることができるわけがない。  川中愛華はねちねちとした目つきで常に久美の言動を追っており、ちょっとでもネタになりそうなものを見つけると、嬉々としてあげつらう。あれほど陰湿で嫌な性格の奴は滅多になかった。  (上梨にいたんだ。子供までいるんだ)  ばくばくと心臓が高鳴り始めた。  嫌な汗がくびれた顎に滑り落ちる。  ここは上梨。  自分はなにを勘違いしていたのだろう。上梨は、自分にとって心の慰めになるような場所では、断じてないのだ。  (幸せそうに、息子までもうけて。どうしてこいつに、そんな権利があるのだろう)  かつてのいじめっ子との遭遇が引き金になるなんて、久美自身、予想もしていなかったことだ。ともあれ久美は、愛華とその子供の姿を見てしまったことで気分が動揺し、衝動的にーー久美は衝動的に取り返しのつかないことをする癖があるーー大友優からのメールに返信をしたのだった。 **
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