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 夢の中で、浜洋子は母親になっていた。いつ産んだやら分からないが、すでに子供は小学生になっており、公園のブランコで遊んでいるところだった。洋子は愛用の日傘をさし、石のベンチに腰掛けて子供の遊んでいる姿を見守っている。子供の顔は、こちらからは見えない。元気よく立ってブランコをこいでいる後姿が、近づいたり遠のいたりダイナミックに揺れている。空は青くすがすがしかった。  この公園は上梨小学校の近くの神社のものだ。子供たちは学校が終わってから、よくここにたむろしていた。近場に駄菓子屋があったので、お小遣いがある子は店でなにか買って、公園で食べたりしたーーと、思われる。  思われる。  洋子は突然、暗い気分に襲われる。    きいこ、きいこ。  子供は飽きもせずブランコをこいでいる。白いスカートが揺れ、青空の中に溶けてゆきそうになる。呼吸困難になりそうな嫌悪感に苦しみながら、洋子は子供の背中を見つめ続けるーー見たくはないのに、見守らなくてはならない。  (そうよ、わたしは小学生の頃、この公園で遊んだことなんかほとんどなかった)  誰もがここでたむろし、遊ぶ場所。ジャングルジムは秘密基地のように魅力的な格好をしていて、地球儀のような球体をした遊具は、伝い歩きをしたり、中に入り込んだりして何人かの暇つぶしになる。シーソーは仲良し二人組の指定席。  洋子は見ていただけだった。それも、通り過ぎざまにちらっと横目で眺めるだけだった。立ち止まって見ることすら、洋子はできなかった。なぜなら、そんなことをしたら、さも仲間に入れてほしそうに見える。そんなもの欲しそうなことなど、洋子はしたくなかった。それに、そんなことをした瞬間に、あいつらーーあの、正義ぶった連中だ、例えば田中香織とかーーがひそひそと内緒話をはじめ、こちらを陰険な目で睨み始めるだろう。  「やだ、見てるよ」  「喋りかけられたらキモイから、みんな、行こうよ」  学校で何度もそんな場面を体験した。洋子が立ち尽くす前を、さあ一刻も早く、この面倒くさい奴の側から離れなくちゃ、と逃げてゆく集団。誰も面と向かってはっきり言うわけではない。だから、洋子には対処のしようがない。誰かに訴えるにしても、きちんとした証拠がない。けれど、確かに洋子が近づけばーーガタガタ、バタン。やだー、いこいこ、はやくいこーー聞こえよがしの言葉が鋭く走り、そそくさと逃げてゆく。  みんなを引率しているのは、田中香織と、その仲間たちだった。    きいこ。きいこ。  ブランコは揺れる。洋子はうんざりしてくる。いい加減、子供がブランコに飽きれば良いのにと思う。いずまでここに付き合わされるのだろう。どれくらい時間がたったろう。  (ここにいると、思い出さなくても良いことを思い出してしまう)    洋子の顔立ちは悪くないし、発育も良い方で、クラスの中では女っぽい方だった。成績も良かったし、本当ならクラスのアイドルになってもおかしくはない素質を持ち合わせているーーと、洋子本人は思っている。実際、最初の頃、洋子は男の子には割と受けが良かった。  それを、妬まれたのかもしれない。洋子は胸糞悪く思い出し続ける。  不思議なことに、洋子が今胸糞悪く思っているのは、自分を虐げたクラスの強者組の面々よりも、自分と同等の仲間として扱われた「嫌われ組」のみんなのほうなのだった。  (あんなのと一緒にされていた・・・・・・)  キッシー。ぶよぶよの体をして、自由ノートにアニメのキャラクターを精密に描いていた。本が大好きで、いつも何かを読んでいた。その様子は、自分から他のものを遠ざけているような感じがした。休み時間にキッシーが黙々とノートになにか書きつけているのを見ると、苛々としたものだ。  そして、モヤシだ。あいつこそ、嫌われて当然だったと思う。ひょろひょろの格好に、いつも同じ汚れたTシャツを纏い、まるで滑稽なカカシみたいだった。勉強はもちろん最悪にできないし、それどころかまともに教科書を持ってきたことが何度あったことだろう。常になにか大事なものを忘れてきていて、宿題を忘れた人、学力テストで80点以下だったため再テストをしなくてはならない人が黒板に書きだされる時、いつだってモヤシの名前が見えた。  (このわたしが、どうしてあんなのと同格に)    もう一人いた。  大山怜。ゼロだったか。  いまいち洋子は、ゼロの印象が薄いのだった。「嫌われ組」の一員だったのは確かだが、どうして「嫌われ組」に入っているのかよく分からない。でも、田中香織らはゼロを忌み嫌っていたし、一時はクラスの皆に、ゼロと口をきくのを禁じていたくらいだーーああそうだ、確かゼロは殺人犯の子供だからいつかゼロも人を殺すから、近づいてはならない、とかいう理由で嫌われていたんだったーー洋子は首を傾げて思い出そうと努める。ゼロは本当に殺人犯の子供だったのか。いや、そんなはずはない。上梨町の住人に殺人犯がいるとしたら、町民じゅうに噂が広がって大変なことになる。それにおそらく、記憶に間違いがなければ、ゼロの父親はどこかの町工場で働いていたし、母親は看護師のはずだった。殺人犯だなんて、どこからそんなウソっぱちを引っ張り出してきたんだろう、あきれるばかりだ。  (きっとあの子も、妬まれてしまったんだわ。あの田中香織に)  つまり、洋子は「嫌われ組」の中では、唯一、ゼロのことを対等に思っているのだった。  きいこ。きい。  子供はしつこくブランコをこぎ続ける。ああ嫌な音だと洋子は思う。  早く帰ろうよ、と声をかけるが、子供はうふふと笑った切りブランコをこぐのをやめなかった。イライラと洋子は足元を見た。  もやもやと喉元でなにかが渦を巻いている。なにか、歯に物がはさまったような感じがする。これだけだったろうか、「嫌われ組」の面子は。仲間はたったこれだけか。  もうひとり、いなかったか。  「カミサマはいないかもしれないけれど、かわりにアタシが、仕返しをしてあげる」  ドクン。心臓が冷たく跳ね上がった。一瞬、強烈な面影が脳裏をよぎった。三日月型に笑み崩れた口元。細い目。白い顔。    「ね、いいでしょ。だからアタシは、仲間。あなたたちの仲間よ」  指切りを求めてくる細くて白い指。絡めた時の、冷たい感触。ゆびきりげんまんうそついたら。次々に絡み合う指。仲間だよ、仲間は指切りげんまんだよ。洋子だけではなかった。キッシーのあぶらっこい顔が、すぐそこにある。むちむちとした丸い指が洋子の上から絡んでいる。モヤシの骨のような不気味な指も絡みついている。気の弱そうな八の字眉の下で、丸い目が臆病そうに輝いている。そして、ゆっくりと、なにかを確認するかのように絡んできたのはゼロの指だ。そうだ、ゼロが最後だった。その、奇妙な約束の儀式に入ってきたのはゼロが一番最後。それまでゼロは、頷くでもなく、あの何を考えているかわからない無表情で、様子を見ていただけだーーそんな高みの見物のような態度が、少々、洋子は気に入らなかった。  ゆびきりげんまん。仲間だよ。うそつかないでね。ちゃんと仕返しをしてあげる。だから、今度はあなたたちの番だからね。いい?  にんまりと笑う口元。細くなる目。みんなより頭ひとつぶん小さな姿。おかしなことだけど、洋子はその子の顔立ちや服装等、姿かたちについてはよく思い出せなかった。  「アタシがここに戻ってっていったら、ちゃんと戻ってきて。約束だからね」  約束だからね。  (なんて子だったろう。名前は。住んでいるところは。クラスにあんな子いたかな。一組の子だったかもしれない)  「ね、もう帰ろうよ。ブランコやめなさい」  ついに洋子は立ち上がった。子供はしかし、こぐのをやめなかった。それどころかケタケタ笑った。    「ママも一緒にのろうよ」  と、子供は言った。  「ね、一緒にのろうよ」  いい加減にしなさい。洋子は怒りながらブランコに近づこうとした。だがその時、ぴいんと透明で強靭な糸が空気の中に張り詰めるのを感じた。その糸は洋子の中から伸びており、ブランコをこぐ子供に繋がっているようだった。子供はブランコをこぎながら振り向き、片手でじりじりと糸を手繰り寄せるしぐさをした。ぐいぐいと洋子は大きく揺れるブランコに引き寄せられていった。  「ほら、来て。ちゃんと来て。約束じゃない」  子供の顔は白く、口元は三日月形に裂けていた。  洋子は悲鳴をあげながら目覚めた。けだるい午睡で、だらだらと時間を潰していた。部屋はむうっと暑く湿っぽい。全身に嫌な汗をかいており、洋子は布団から起き上がった。  起き上がるとき、思わず下腹部を片手でかばってしまったーーここに子供がいる。子供が。  洋子は唾を飲んだ。どうしてこんな夢を見たのだろうと思った。    なにか、思い出さなくてはならない重大なことがある。あの、小学六年の時期のことで。  「嫌われ組」に、もうひとりいたはずなのだ。顔すら思い出せない、奇妙な子供が。  その子供のことをはっきりと確かめないと、また同じ悪夢を見そうだと、洋子は思う。手は無意識にスマホを引き寄せている。モヤシからメールを貰ってどれくらい放置していただろう。やはり、返信したほうが良いかもしれない。  あの、苦痛に満ちた「嫌われ組」の記憶を清算するためにも。そして、そのことを自分の中で整理することができたら、もしかしたら人生が良い方に変わるかもしれない。  浜洋子にとって、小学六年の時のいじめはその後の人生になにかしらの暗い影響を及ぼし続けてきた、「人生の癌」なのだった。 **
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