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 人を善と悪だけに分けて考えるべきではない。  ずっと昔、誰かがそう言った。 **  「ゼロ」  と、その人は言った。その声が、あまりにも子供時代と変わらないので、逆に本当に彼が大友優なのか疑うほどだった。みいなは立ち止まり、かなりの距離を開けて見つめあう見知らぬ男と叔母の二人を見比べている。無心な瞳が、今見ているものを、恐ろしいほど客観的にとらえ、その結果として「この状況は奇妙だ」と感じ取っている。みいなは若干怯えた様子で後じさりし、叔母の脇まで戻った。怜は無意識にみいなを背後に庇った。  「大友君ですか」  言ってから、なんで敬語なんだろうと怜は思った。だが、大昔の仲間であると同時に、今はそれほど親しくない相手であるのと、お互い良い年をした大人同士なので、やはりここは敬語だろうと一瞬のうちに結論した。大友優は着古したグレーのジャージを纏っており、多分それは部屋着なのだろうと思われる。きっと外出する時に身支度をすることは、彼にはないのだろう。髪の毛は、あの当時はきのこ型に切りそろえられ、それがきちんと整えられていないので毎日酷い寝ぐせであちこちに跳ね上がっていたものだが、今の彼は、ただボウボウと、伸びきった長髪にがさがさした白髪が幾分混じっていて、それが少々インテリジェンスに見えないこともなかった。だけど今の大友優の身なりに構わない感じをそのまま小学生時代にもっていったならば、やはりあの当時みんなが言い合っていたように、「不潔」という一言に集約してしまいそうだった。  (大人になるとは、得なものだ)  怜は思わず感心した。年齢や、それなりに重ねたいろいろな経験などが、大友優のマイナスな要素を「いや、そうでもないな」と見る者に思いなおさせることに役立っている。そして多分、それは怜自身にも言えることだーー自分の身に重ねてみて、なぜか怜はぞっとしたーーあの当時、冷血だの、人殺しをしそうだのと陰口をたたかれていた怜の無関心めいた無表情さは、大人になった今、冷静にものごとを処理できて常識のある雰囲気に捉えられることが多いのだった。  例えば太っていることにしても、子供の頃はからかいや虐めのネタになるかもしれないが、ある程度年齢を重ねれば、童顔に見えたり、肌が若く思われたりする。  でしゃばりやぶりっ子だと言われ、嫌われていた子供が、大人になれば積極性があり、肝が据わっていて上司に気に入られたり、世渡り上手だったりする。  それがいわゆる「個性」というものだ。なんでもかんでも「個性」で片づけるわけではないが、大人になった大友優を見て、怜は確信した。人はマイナスにもプラスにも変化する。それは自分の力で変わる場合もあるだろうけれど、周囲の人間も年をとったり、環境が変わったりなどして、様々な要素が作用して、色々に変わって見えるのだ。  実際、大友優ーーモヤシと呼ばれ、勉強も運動も、それどころかまともに喋ることすらできず、不潔な嫌われ者だったーーは、とても思慮深そうに見えた。ばさばさの長い前髪の間から覗く小さな黒い目は、何でも見透かしているようだった。  「そうだよ」  彼は言い、少し微笑んだ。その微笑み方は、昔の彼にはなかったものだった。大人の男性の笑い方だった。彼は優しそうにみいなを見下ろし「お子さん、というわけじゃないよね」と遠慮がちに言った。姪です、と、怜はやはり敬語のまま答えた。  「メール、突然送ってごめんね。上梨にみんな戻ってきている凄いタイミングだし、一度会えたらと思ったんだ」  大友優は少しずつ距離を縮めてきた。ひょろ長い彼が一歩近づくたびに、怜は背中が冷たくなった。あの非力だった少年が今はこんなに大きくなり、靴のサイズも巨大で、一歩当たりの距離も大きい。今の彼ならば、あの頃できなかったことを軽々となしとげてしまうだろう。例えばーー。  「俺たち、仲間だったじゃん。あの頃唯一のトモダチだったっていうか。思えば一度も集まってないからさ、小学校卒業してから」  ついに大友優は怜とみいなの正面に立った。みいなは物珍しそうに彼を見上げた。みいなにとって、大友優はそれほど怖い相手ではなさそうだった。    仲間。トモダチ。  怜は心の中でその言葉をつぶやいた。本当に、と問い返したいのを抑えて、弱弱しく微笑み返しただけだった。  「みんなこっちに戻ってきてるって、どうして分かったのよ。調べたの。それとも偶然知ったの」  怜はやっとくだけた調子になって言った。もっと知りたいことがある。あのメールを他の仲間にも送ったのだとしたら、他からも返信はあったのか。もしかしたら無視する者もいるかもしれない。    だが、大友優は怜の問いかけに答えなかった。その代わり、すっと右手をあげ、資料館の奥にある、すりガラスの引き戸を指さしたのだった。  「もし、上梨のマイナーな歴史を知りたいなら、資料はあそこだよ」  優は言った。これは、怜にではなく、みいなに向けた言葉らしかった。  「このへんの本棚にあるのは、上梨の歴史というより県の風土とか、県出身の著名人の著書とか、そういうのばかりだから」  「すごい。わたしが何しにここに来たのか見抜いているみたい」  みいなが押し殺したような、はしゃいだような声で言った。超能力だの、神秘だのといったことが大好きなみいなにとって、大友優の風貌は極めて魅力的であろう。  優はふふっと笑った。そして、あの、子供時代と同じ、ふやけたような力のないような声で「夏休みの自由研究かな」と言った。  怜はぞうっとしていた。  自分がどうしてこんなにぞうっとするのか分からなかった。  大友優と目があった時ーートモダチだよねーーあの、三日月形に口元を笑みくずれさせた、誰だか分からない、本当に存在しているのかも怪しい、「あいつ」の姿が強烈に浮かんだ。 **
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