2/3
24人が本棚に入れています
本棚に追加
/46ページ
 ざああああああ。  目が覚めてしばらくの間、水の音をぼんやり聞いていた。一瞬、どうしてマンションの中なのに滝が流れているのかと思った。  ざああああああ。  (洋平が戻ってきてシャワーを使っている)  と、怜は思ったが、すぐにそれは違うと気づいた。  ここはマンションではない。  神奈川でもない。  夏の盛りが近づく早朝の日差しは強い。破れかけた障子は爽やかに白く輝いており、淡く透過した外光が和室をほのかに明るくしていた。ざあざあ激しい水音は、この戸建てのすぐそばを流れる農業用水の流れだ。  ぶいいいいいん。ぶいいいいん。水音に混じり、機械音が聞こえた。草刈り機が何台も動き出している。ぶいんぶいんとうねる音は、不平そうな合唱のようだ。  草刈り機の音で目が覚めたのだった。怜は枕から頭を起こした。広い戸建てに寝泊まりを始めてから、まだ一週間たたない。この家は親戚の家だ。かつて老夫婦が住んでいたが、六年前に爺さんが亡くなった。婆さんが特養に入ったのは去年のことらしい。この家はいずれ売却する。買い手がつくまでに傷んではいけないから、誰かしばらく住んでもらえないかと言っていたところに、怜が上梨に戻ってきた。最初、怜は実家の大山家に居候させてもらっていたが、手狭なのと、妹夫妻に気兼ねがあるのとで、どうにも居心地が悪かった。ちょうどよく、こんな物件があるけれど管理人替わりにしばらく住んでみないかと話が持ち上がった。話がきたその日のうちに、怜はその、側に用水が流れている田園地帯の戸建てに引っ越した。集合住宅の隅っこに位置するその戸建ては、いかにも住み易そうに見えた。その予感は違わなかった。一日中でも家の中にいたいほど、そこは静かだった。  その、穏やかな家の中で、一日がすでに始まっている。    洋平が戻ってきたのでは、と思った瞬間、怜の心臓は不穏な音を立てた。どこか喜ばしい気持ちがないわけでもなかったーーそれを認めるのは辛いことだったーーけれど、怜は今は、そうっとしておいてほしかった。たとえ洋平であっても、自分に触れたり、心を揺さぶったりしてほしくはないのだった。  草刈り機の音をBGMに、襖をあけて廊下に出た。台所は既に明るい朝日に溢れているらしく、すりガラスから廊下に淡い光が漏れていた。家の中はむわっと空気が籠っていて、はやく風を入れたいものだと怜は思った。  閑散とした台所には、年寄りたちの生活の名残が漂っている。古めかしい重たげなテーブルセットには昔風のビニールのクロスがかかっており、ところどころに醤油のシミがついていた。どんなに洗っても落ちない類のシミだ。クロスは、紙を上にのせて鉛筆でこすれば花模様が浮き上がるタイプの、ぼこぼこしたものである。  備え付けの大きな食器棚には、ただ古いだけの食器が重ねられていた。  婆様が特養に入居した時、だいたいのものは整理したらしいが、それでもまだ物は残っていた。あるものは何でも使ってよいし、どうにもならないものならば捨ててくれてよい、と言われていた。古いテレビは地上波を受信するのがやっとだった。まるで骨董品で、映るだけ儲けものだと思われた。風呂場の脱衣所には二層式洗濯機があり、最初、使い方に戸惑ったが、今では使い慣れてきた。タイルのはがれかけた風呂場。薔薇のステンドグラス風のシールが貼ってある、風呂場のすりガラス。  なにより、昔の「におい」がここには満ちていた。  ふっと鼻をかすめるように、時折線香のにおいがよぎる。建物にこびりついたにおいなのだろう。今、この家には仏壇はない。  子供の頃、数日の間、この家に遊びに来ていたことがあったという。  夏休みの間、両親とも仕事が忙しく、預かり手がいなくて、やむなくこの家に一日、置かせてもらったらしい。老夫婦の二人住まいだったから、子供は歓迎された。もうだいぶ記憶は薄れているが、冷たく甘い瓜をオヤツに食べさせてもらったのを覚えていた。だから、家のあちこちに、なんとなく覚えがあるのだった。  ガラス戸を開くと、草刈り機の音と水音が、大音響で家の中に入り込んだ。  雑草の茂った庭の、水臭いかおりが風と一緒に飛び込んだ。目の前が白く感じるほど外は眩しく、夏の気配に満ちていた。怜は空気を吸い込むと、薬を飲むためにテーブルに向かった。  神奈川の病院でもらった薬は、あともう少しで切れてしまう。  今日は木曜日だ。上梨町の総合病院の外来は、確か木曜日は半日しかやっていなかったはずだ。昔は、だけど。   (午前中に行けば大丈夫だろう)  と、怜は思ったが、またムクムクと神経質な焦りが込み上げた。その神経の動きは不快で苦しいもので、それがここ数年間、怜を追い詰めてきたのだ。  ぐるぐると焦りが巡ると同時に、体はずんと重くなり、下腹が痛くなった。たった今、さわやかに起床したばかりなのに、まだすぐに寝床に戻りたい気分になった。  ああ。このまま何もせず、目覚めることもせず、なにも食べたり飲んだりもせず、眠り続けていられたならば。  だが怜は、ごく普通の解決方法を見出した。スマートフォンを開き、インターネットで総合病院の営業時間を調べた。やはり木曜の外来診療は午前中のみであった。  そうだ、念のために電話をしておこう。初診なのだから。  そこまで頭の中を整理すると、怜は大きく息を吐いた。これだけ考えるだけで、息が詰まりそうだった。    「メンタルから来る症状は、どうにもならない」  それはよく分かっている。分かっているけれど、怜にはどうしようもなかった。ただ医師に縋り、なんとか薬を処方してもらう。薬を飲めば確かに気分はよくなった。  たっぷり詰め込まれていた粉薬は、もう僅かになっている。袋はしわしわになっており、余ったスペースが空虚だった。少ししか残っていない薬を眺めながら、怜はため息をついた。 **
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!