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 「やり直したい。お前しかいない」    何度も読み返す。その短いメールの真意を見破れないほど、岸辺久美は愚かでも、身の程知らずでも、楽観主義者でもなかった。にも拘わらず、読み返すたびにどこか気持ちが緩んだ。やり直したい。お前しかいないーーそれは、あの男にくっついてくる女のレベルなどたかが知れている。顔だけが良くて、あとはお粗末な女か、男も女も同じ目論見で相手に食いつこうとしてーーいかに相手に金を出させるかーー結局、似た者同士だったことが判明し、罵詈雑言の嵐の末に別れるようなタイプか。さんざん女遊びをした末に、お前しかいない、と戻ってくるような男であること位、久美には分かっていた。長い付き合いの中で、男が浮気相手のところに行き、何日も帰らなかったことが幾回かあった。そんな場合でも、男は「お前しかいない」と言って、いけしゃあしゃあと戻ってきた。  (困っているんだろう)  と、久美には容易に男の財布の現状が見えた。どうにもならなくなり、最終的に久美に泣きつくのはいつものやり口だ。今までの久美なら、まあ自分も寂しさしのぎで男を飼っているのだと、上から目線でありながら、どこか満たされた思いで、男の勝手さを何度も受け入れてきた。だが、今は違った。  今回は、久美の方から男を切ったのだ。  男を切ったというより、人生を切った。久美は疲れ切っている。頼りにされてきた仕事からも、自分をむさぼる男からも逃げたかった。それで上梨にもどってきたのだ。  (この分だと、会社からも連絡がくるかも)  退職届を押し付けた時の社長の顔が浮かぶ。退職は認めない、これは休職だ、と言い放った古風な社長。いろいろと問題のある会社だ。いわゆるブラック企業であろう。戻ってこい、責任を取れ、等と連絡が来た場合、極めて面倒くさいし煩いことだろうと分かっている。けれど、久美はどこか、そういう展開を待ち受けていた。  捨てた男や、離れた仕事から、道端に茂る「ひっつきむし」のように、未来永劫たかられていることを、望んでいる。  (そんなことはない。わたしはそんなことは望まない)  頭では否定するのだが、やはり久美は、心の深い部分で、いつも追いかけられている自分であることを望んでいる。必要とされている、愛されていると思い込んでいたい自分がいる。  それを自覚するのは非常に屈辱的なことであり、久美は敢えて自分の姿から目を逸らしている。だが、本当は分かっているのだった。  自分は、それほどまでに孤独なのだと。  だからだろう。くだらない見え透いた男からのメールでウキウキしながらも、どこか荒んだ気持ちを持て余している。朝から久美は落ち着かなかった。スマホを離すことができず、気が付けばメールを開いて男からの文面を眺めていた。返信する寸前にまで何度もいった。その度に、それは違う、と自分を戒めるのだった。  買い物に行こう、と、久美は思い立った。幸い、天気は良い。暑くて外に出たくはないが、食べ物を調達に行かねばならなかったし、仕方なく重い腰をあげた。ほてほてと長く歩かねばならないが、ウォーキングして体を使うことで、余計なことに頭を使わなくて済むかもしれない。くたくたに疲れたら、男のことなど考える間もなく眠ってしまうかもしれない。  外に出て歩き出して早々に、久美は後悔した。物凄い暑さだった。でぶっとした体からは粘っこい汗がひっきりなしに吹き出し、つばの広い帽子をかぶった頭は気持ち悪く蒸れはじめ、まもなくだらだらと汗が流れてきた。ぼたんぼたんと大粒の汗が青いTシャツに雫をたらし、久美はぜいぜいと息を荒げた。カメのようにのろのろ歩道を歩く久美の横を、とんぼのような爽快さで部活動に行く中学生たちの自転車が追い越していった。  上梨中学校の子供だ、と、久美は思う。小中学の記憶は久美を嫌な風に刺激する。太っていてアニメが好きというだけで、どうしてあれほど人から嫌われなくてはならなかったのか、意味が分からなかった。それは未だにそうだ。  ぜいぜいと歩きながら、久美の頭は小学6年の頃の、あの嫌な思い出をよみがえらせていた。「嫌われ組」の一員だった久美。田中香織とその仲間たちの視線。嘲笑。自分が嫌われた理由として「太っていてオタクでキモイ」という以外に「内またで歩くからブリッコ」というのがあった。  (確かにわたしはO脚よ)  ぼたぼた汗を垂らしながら下を向くと、太ったお腹からやっと見えるスニーカーのつま先があった。内側に向いたつま先から、「ブリッコ」のイメージは、どうにも沸きにくい。ブリッコというのは、他者に媚びることを言うのだと久美は思っている。つまり、愛らしく見せる行為のことをブリッコというのだろう。久美は自分のつま先を歩きながら確認した。その様子のどこをとっても、愛らしく見せようとする努力など、見当たらなかった。  田中香織たちは、必ず何らかのもっともらしい理由をつけ「嫌われ組」をあげつらう。  だけど、その理由は嘘っぱちの、妄想の、でたらめだーー久美は三十年前の子供時代の恨みを、メラメラと燃え立たせながら歩いた。冷笑する「あいつら」の顔は、真夏の憎らしい太陽の光の下で、まるで今そこにあるかのように鮮明であった。  (でも今は違う。今わたしは少なくとも、捨てた男に縋りつかれている)    どうやらコンビニエンスストアに到着した。店は繁盛しており、駐車場は県外ナンバーが目立った。弁当やサンドイッチ、ペットボトルの飲み物が必要だった。久美は腹が減っている。籠の中にあれこれ抛りこんでゆく。おにぎりのコーナーでツナ巻きに手を伸ばした時、それは起きた。腹が立つほど優雅な白い手が、自分と同じツナ巻きを狙っていた。手と手が触れあい、ぎょっと顔を上げた時、久美は更にぎょっとした。それは相手も同じだったろう。  三十年の年月は人の外見に大いに作用するはずだ。事実、彼女の様子は小学六年の時とは違っている。ブランド物の衣服、良い香り、綺麗に整えた髪の毛、上品に化粧した顔。だが、一目で彼女だと分かる。  浜洋子が、長いまつげをパチパチさせて、驚いていた。  「キッシー」  と、洋子は言った。その時、久美は何か違和感を覚えた。それは、洋子の声がいやに優しく感じたからだーーこんな優しさを持つ声ではなかった、あのプロフェッサーはーーとりあえず久美は作り笑いを浮かべ、「久しぶり、プロフェッサー」と片手をあげて挨拶を返したのだった。  洋子は一瞬で久美を審査したらしかった。上から下まで素早く見回し、その結論として「大したことないわ」と決めつけたらしい。久美を見る洋子の目つきにそれが見て取れた。  一方久美は、洋子の雄弁な目つきを読み取り、モヤモヤと嫌な思いをいだいたが、久美の方も相手を突き刺すように観察していた。観察力という点では、久美は洋子と同格か、それ以上だった。長年の編集者としての目は、様々なものを見抜く力を持っていた。  「おめでとう。何か月目」  スパンと、鬼の首を鋭い刃で切り落とすような爽快さで、久美は言った。その瞬間、洋子がすうっと土色に青ざめた。久美は留飲を下げた。  「母子手帳、今はそういうデザインなんだねー」  洋子は夏らしく、シースルーのバッグを持っている。その中に、洒落た財布やスマホカバーやメイク道具が見えていたが、白とピンクの柔らかな色合いの母子手帳があるのを、久美は見逃さなかった。  「てか、結婚してるんだったら、もう浜洋子サンじゃないんだよね。なんて呼べばいいのぅ」  と、久美は言った。  洋子はぎらぎらした目で、追い詰められた野獣のように久美を睨んだ。だが、口元はなんとか大人の余裕を保って微笑みを作っている。「苗字は変わらないわ」と、洋子は言った。今は苗字にこだわらない時代だ。結婚しているかしていないか、苗字だけで安易に判断出来やしない。苗字は変わらない、という返事だけで、洋子は久美の攻撃を退けたつもりだった。  「いやー、ほんとに来てたんだ、上梨」  しかし久美は暢気そうに続けた。最初、ちらりと見えた敵意は影をひそめ、代わりに屈託のない昔なじみの笑顔があった。  「モヤシからメール来たんだけど、ほんとかなってちょっと疑ってたんだよね。みんな上梨に揃っているんだって。ってことはゼロもいるのかな」  「わかんない、いるんじゃない、すぐに分かるわよ」  洋子もつられて微笑んだ。そして、シースルーのバッグをさりげなく脇にはさみ、中身がこれ以上見られないようにした。  「中華料理屋で集まるんでしょ。行くんでしょ、キッシーも」    中華料理屋で四人が再開する段取りになっている。  あのあと、久美も洋子も、大友優と連絡を取り合っていた。せっかくだから食事でもして旧交を温めよう、ということになった。  「上梨にも中華料理屋ができたんだね」  「わたしらがいたときはなかったよねー」  まるで本物の仲良しのように、久美と洋子は喋りながらレジに並んだ。店の自動ドアが開くたびにオルゴールが鳴る。繁盛している店らしく、何度も何度もオルゴールが鳴り響いた。  小学六年生くらいの女の子が二人、おこづかいの入った小銭入れを握りしめて、きゃっきゃと喋りながら入ってきた。二人はお菓子売り場に隠れていった。  その楽しそうな女児に、自分らの子供時代を重ねるのは間違いだと、久美も洋子も分かっていた。それなのに二人は同時に「あんな時代もあったわよね」と言い合い、ちょうどそこにレジの順番が来て、曖昧な笑いの中に会話は途切れたのだった。 **
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