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三十年前の夏に、同級生が失踪したーーと、香織はうすぼんやりと覚えているし、その記憶はどうやら、他の三人も同様らしいーーが、その同級生が誰だったのか、どうしても思い出せない。
香織の投げかけた不穏な質問に答えるわけでもなく、ぼそぼそと喋り出したのは、脂っぽい顔をビールで酔わせた真鍋健太だった。むっちりした指には結婚指輪をはめている。さっきからぶるぶると微かにスマホの音が聞こえているのは、健太のズボンのポケットからだと思われた。その度に健太はそわそわとしたが、気を使ってスマホに触れない様子だった。
(忙しいんだ)
と、気づいたのは所沢愛華だった。斜め向かいの健太に気づかわしげな視線を送っている。一瞬、目があった時、小さなジェスチャーで「電話出たら」と伝えたが、すぐに視線を逸らされてしまった。香織が変な顔で愛華を見るーーこの人には、仕事に追われながらもどうしてもこの場に来ずにいられなかった真鍋健太の立場など、理解できないだろうーー愛華は反抗的に考えた。香織は昔から女王様だった。それにかしづいていた自分を思い出すと、胸やけがしそうだった。
香織は愛華を好きではない。一方で、愛華は香織を憎んでいるのだった。
(分からないのよね、次元が違うんだわ)
「この間から、何故かそのことばかり、モヤモヤと考えてしまうんだ。そういうタイミングで、所沢さんからメールが来たんだよね」
健太は太く穏やかな声で、独白するように言った。誰からの反応も求めていない様子に見えた。
ブルブルブル。また、スマホが鳴った。愛華が気づいているのと同じように、瀬川大翔も心配し始めた。電話出てもいいよ、仕事忙しいんだろ、と、大翔ははっきりと言った。しかし、健太は哀し気に笑い返し、首を横に振った。
かつん。テーブルの下で、香織のヒールが音を立てる。さっきから三人の様子が、どうにも気に入らなかった。白か黒かはっきりしないものは、関わる必要すら感じない。香織はハンドバッグを手繰り寄せた。もう三分待って、連中がこちらからの疑問に答えないようなら、メルセデスに乗って家に帰るつもりだった。
「俺ら、六年の時、酷かったよな」
ぼそっと健太は言った。ぴくっと香織のこめかみが震えた。酷かった、と、健太は言った。何が酷かったというのか。
「ほら、覚えてるだろ。『嫌われ組』。あれ、俺らがピックアップしてさ、あいつもこいつもって、別につるんでるわけじゃない奴らひとまとめにして、まるでさ・・・・・・」
BGMが幸せそうな夏休みの曲に切り替わった。四人は明かに、場違いな大人たちだった。
「まるでさ、正義の味方気取りだったじゃん」
がたん。
少し音を立てすぎたかしら、と、立ち上がってから香織は思った。もっと優雅に動いたつもりだが、思いのほか苛立ちを露にしてしまったようだ。香織は気を悪くしていたが、それを気取られないように微笑んでいた。美しく、冷たく冴えた表情で、三人を見下ろした。もう、この場に用はなさそうだし、金輪際、この面子に会うこともないだろう。
「失礼しました、ごめんなさいね。そろそろ時間が迫ってきたものだから。久々にお会いできてうれしかったわ」
どうぞ、お元気で。お幸せにね。
香織はおっとりと祝福の言葉を述べると、ハンドバッグから折りたたんだ一万円札を出し、愛華に差し出した。しかし、愛華はぼんやりと細い目でお札を見ているだけで手を伸ばそうとしなかった。仕方なく、香織は万札を愛華の肘の側に置いた。
「どうぞ、気にせず楽しんでね。じゃあごきげんよう」
香織はそう言うと、すたすたとテーブルを去った。ありがとうございました、と、アルバイトの女の子の元気の良い見送りの声が聞こえてくる。
残された三人は、なにか、歯切れの悪いものを互いに感じあっていた。三人とも、香織がいきなり立ち上がったことを何とも思わなかったし、引き止めようともしなかった。まるで、飲み会を開くときに香織だけ呼ばないのは申し訳ないから仕方なく呼んだ、というような雰囲気だった。愛華は少し青ざめていたが、それはやはり、小学六年時代の香織の権力を思い出していたからに違いなかった。
「なんか、ごめんね。忙しいのに呼び出しちゃって」
と、愛華は誰にともなく言った。
大翔は無言でビールをあおり、健太は微笑んで首を横に振った。ここに残った三人は、少なくとも共通の理解を持ち合わせていた。
「そうだな。『嫌われ組』」
大翔はジョッキを置くと、ぼそっと言った。
「奇遇だよ。俺もなんとなく、あの頃のことを思い出していた。どうしてだろうって考えたけど、あれだよ。ほら、最近あったじゃん」
大翔の言葉に、三人は顔を見合わせた。同じことを考えているらしいことは顔色で分かった。瞬時に三人は思考を読みあい、頷きあった。愛華の太った顎に、脂汗が滲んでいる。
最近あったこと。上梨小学校六年女児が、学校のプールの授業中に、唐突に姿を消した事件。それはまだ、未解決のはずだ。女児が見つかったという話は聞かない。
「うちの娘がさ、同じ上梨小の六年なんだわ。で、いなくなった子のことも知ってるんだけどさ、まるでその子の立場がさ、娘の話を聞いていたら・・・・・・」
娘のさくら。とても良い子だ。すらりとして運動もでき、顔立ちも良い。クラスでも抜きんでた存在だろう。さくらは面倒くさいしがらみに関わらずに済んでいるが、それはひとえにさくらの立場が恵まれたものだからだ。
そのさくらが言う。失踪した早瀬花音は、意地悪グループの中心でみんなから好かれているように見えて、実は嫌われていた、と。
「うちの息子と同じなんだね、それじゃあ」
今まで知らなかったことが不自然だった、と、愛華は思う。何度も保護者会に出席しているし、入学式にも出たはずだ。けれど、気づかなかった。
愛華の息子、所沢亨。何事にも無関心そうな男子。その亨ですら言っていた。
「確かにうちの子も言ってたわ。早瀬さんっていじめっ子だったって」
具体的にどんないじめだったのか、恨んでいる子はいたのか、など、細かいことは亨は語らなかった。亨はただ、自分の目で見たことを言っただけだーーだって俺、見たことあるもん。あいつが人をいじめてるとこーー三人は互いの顔をじろじろと観察しあった。やがて、ふうと同時に大きなため息をついたのだった。
「そうよ、あのニュースを見たからかもしれない」
愛華は言った。横目で香織が残していった一万円を睨んでいた。
「もしかしなくても、みんな同じなんじゃない。最近、六年の頃のことを異様に思い出してさ、なんかモヤモヤしてしまう。ねえ、さっき香織さんが言ったことだけど、あの時から確かにわたしたち、変わってしまったわ。それ以来、人生もなにもかも、違ってしまったように思えてならないのよ、そうじゃない」
所沢愛華は、製薬会社の事務パートに。豊かではない暮らしの中で、自分のことまで手が回らず、ぶよぶよと太った。
真鍋健太は町工場の設計チームで仕事をしている。激務に耐える日々だ。
瀬川大翔は、家事の下手な地味な女を妻にし、今後が期待できそうもないインストラクターの仕事をしている。
こんなはずではなかった?
小学六年の時点で、三人とも、学年のトップではなかったのか?
「三十年前に失踪があったことだけど、誰がいなくなって、その後どうなったのか、わかんないよな」
ぼそっと大翔は言った。
「俺、今回の早瀬花音さんの失踪事件と重なってしょうがなくて、妙に気持ち悪いんだけど」
「女子だったよな」
健太も言った。太い首を傾げている。ビールの酔いは冷めたらしい。スマホの音は止んでいる。
「女子、だったかな。それすらも」
愛華も言った。この件について話せば話すほど、もやもやが増してゆくような気がした。
だが、三人が顔をつきあわせて喋るほど、その子の面影がどんどん濃くなってゆくような気がした。三人はほぼ同時に、その子の顔立ちを思い出していた。
「くいっと、さ、口元があがってさ、いつも笑ってなかったか」
大翔は言う。眉間にしわを寄せていた。
「まるで三日月みたいにな」
健太も言う。うっすらと汗をかいている。
「ほかのこと、覚えてない。クラスでどんなタイプだったのかとか」
愛華は言った。
「わたし、どうしてもこれ、忘れられなくて。というか、最近、思い出されて仕方がなかったの。その子にさ、言われたこと」
トモダチだよね。ね、トモダチ・・・・・・。
「いや、そんなの、友達の中にいなかった」
そろそろ潮時だろう。お冷をぐいっと飲みながら、大翔は言った。そうだ、そんな子は友達の中にいなかった。いたとしたら、覚えていないわけがなかった。
「それでもさ、こうして俺らまた顔を合わせることができたのは、その子のお陰だよな」
健太はそう言って、場をまとめた。そして手をあげてアルバイトを呼び、勘定をお願いしたいことと、代行を呼びたいことを伝えた。お金を払うために愛華が立ち上がると、健太と大翔が慌てて引き止めた。男である自分たちが割り勘で払うから、と言い張った。愛華は申し訳なさそうにした。実際、愛華はみすぼらしくて、お金に余裕がありそうには見えなかった。
「いや、その一万円も頂いておこうよ」
そういって、健太ははじめて笑った。香織が置き去りにした一万円は、こうして、小学六年時代の「正義グループ」の集まりに、大いに貢献したのだった。
大翔と健太が一万円を持って立ち上がり、レジに向かった。その後ろ姿をテーブルで見送りながら、「香織さんを呼んだのはある意味正解だった」と、愛華は思った。
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