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 神奈川では、移動は電車を使うことが多かった。上梨町は田舎なので交通の便が悪く、車が必要だった。怜自身、滞在がどれくらいになるのか分からないーー一週間二週間程度の「療養」でおさまるはずがないーーというより、おさめるつもりが毛頭ないーー状態で、車については悩ましかった。最初の三日間、実家に身を寄せていた時に、車がないと本当にどこにも行けないことを実感した。徒歩でそのへんを散策するか、さび付いていつハンドルが取れるか分からない古い自転車で、最寄りのタバコ屋まで買い物に行くのがやっとだった。  「お姉ちゃん、それじゃあここでは生きてけんわ」  この、農業用水近くの戸建てに仮住まいする直前、妹が旦那の知り合いをあたり、古い軽自動車を用意してくれた。  実家に身を寄せている間、なにかと気を使うことの多い妹夫婦だったが、反面、妹はできる限り心を砕いてくれている。奈津は昔からそうだった。クヨクヨ思考が開店する怜とは真逆で、はきはきとし、社交的で人当たりの良い奈津。姉が家を出て、妹が婿をとって残ったが、それも道理だと誰もが思うだろう。  白い軽四は、これもどこかの老人の持物だ。高齢のため家族が運転を控えさせたがり、車をどこかにやってしまいたいと前から零していたらしい。  「どうせ次の車検までには廃車にするつもりだっていうし、タダみたいなもん。保険は加入してあるから安心って言われたけれど、なるべくなら安全運転で」  念押しするように奈津は言い、その、あちこち擦り傷がついた車を怜に提供したのだった。  (わたしが自動車免許更新しているかどうか、確認すらしなかったなあ)  車のキーをぽいっと投げられて気軽に受け取った瞬間のことを思い出すと、苦笑いしたくなる。  「お姉ちゃんがいつも心配。しょうがないんだから」  という愚痴の裏側には、  「わたしはお姉ちゃん信じてるし」  という、ある意味無責任な信頼がある。奈津は得な性分だと、怜は思う。幸い、自動車免許は更新済みだった。  ロールパンと牛乳だけの簡単な朝食をとる。いつの間にか、草刈り機の音は消えていた。水音は相変わらず続いていて、今はじわじわと遠慮がちに蝉の鳴き声が混じり始めている。  蝉。    軽いめまいを覚える。不調が出始めてから、なにか頭の中で思い出そうとすると、ぐるりと脳神経が億劫そうな悲鳴を上げる。そして、一瞬、今なにをしていたのか、これからなにをしようとしていたのかが、どこかに飛ぶーー若年性認知じゃないだろうかーー怜は目を閉じる。若年性認知ではない、ただの気の病だ。どこの医師もそう言った。洋平もそう言った。問題は怜自身が、自分のことを信じていないことだろう。  そう、蝉だ。  ゆっくり目を開けると、目の前に空のマグカップがあった。牛乳の雫が白く残っている。また頭が委縮する。  (まるで、思い出すのを拒否しているような)  蝉の声には、なにかがある。  神奈川でも夏を幾度も過ごしたし、油蝉の声も聞いた。その都度、なにか不穏な気がした。夏のせいで不調をきたしているのだと思い込んでいたが、今、上梨町に戻ってきて蝉に遭遇してみると、不穏な感じが増している。それどころか、今まで靄がかかって思い出せなかったことが、いきなり真正面から迫ってくるような恐怖がある。  蝉が、鳴いていたと思う。  その時怜は、ショートパンツをはいて、足を惜しげもなくむき出しにし、サンダルをはいて、あちこちを走り回っていた。まるきりの子供とは言えないが、かといって大人でもない。思春期というには早すぎる。そのくせ周囲からは、都合よく放置されたり、責任を負わされたりする。  頭の中の渦の底から、不意に「小学六年」という単語が沸いてくる。  小学生最後の夏。    はあと息が出た。動悸がしている。よくない兆候だ。決して自分を追い詰めてはならない。深呼吸をして、時計を見る。八時半を過ぎようとしている。  良い時間だ。総合病院の受付が始まっている。まずは電話をしていかねばなるまい。自分の症状と、今まで神奈川のクリニックにかかっていたこと、今からみてもらいたいこと。総合病院の受付の人は、親身に聞いてくれるだろうか。  スマホを開いたタイミングで、着信音が鳴った。どきりとして、スマホを落としかけた。    「大友優」という名前が画面に表れている。  滅多に見ない名前だし、その番号を登録していたことにも驚きを覚えるーーいつ登録したのだろうーー怜は反射的に電話に出た。相手に繋がった瞬間、恐ろしいほどに頭の中がクリアになり、いきなり自分の中に「風が吹いた」。  どおおおおおお。  夏の風は生ぬるく、容赦がなく、時に激しい雨を交え、なにもかもを洗い出してゆく。  どおおおお・・・・・・。  「ゼロ」  と、スマホの向こう側で、彼は言った。その声は笑っているようでもあり、緊張しているようでもあった。  「来てるんだろ、こっち。そうだと思ってる」  「どうして」  同じように少し笑いながら、だけどかすれた声で、怜は答えた。どうして知っている、わたしが戻ってきていることを。だけど、深い部分で分かっていた。そうだ、戻ってきたのだ。戻るべくして、今年、この夏、上梨町へ。  「みんな来てるんだ」  優は言った。落ち着いた大人の声の底に、あどけなく弱弱しい泣き虫モヤシの震えが残っていた。  「キッシーも、プロフェッサーも、上梨にきている。ゼロで全員揃う。いや」  いや。  ためらいがちに、優は言った。  「全員じゃない、かな。それが問題なんだけど」  なんのことだろうと問いただす間もなく、優はつづけた。  「用事あるんだろ。俺も仕事あるし。時間ある日の晩にでも、集まって飯食おうよ。気になることもあるしさ」  小学六年以来だから、三十年ぶりになる。  キッシーは岸本。プロフェッサーは、大学教授の親を持っていたからプロフェッサーで、本当は浜といった。優は泣き虫モヤシで、クラスどころか、学校中から虐められていた。  ゼロ。  怜だから、ゼロだ。  その呼び名は心を打つほど懐かしかった。ゼロ、ゼロ。怜はそう呼ばれていた。「嫌われ組」の仲間から。  電話は切れた。  怜は改めて総合病院に電話をかけながら、「嫌われ組」の面子を思い出した。モヤシ、キッシー、プロフェッサー、ゼロ。みんな揃っているはずだ。みんな。  みんな?  喉になにかが引っかかったような気がした。  にんまりと三日月形に笑う大きな口と、卑屈な細い目。  ああ。  誰だった、だろう。  もう一人いたと思う。いや、そんなはずはない。全部で四人なのだ。四人でたくさんだ。「嫌われ組」なんか。
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