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 まだ下腹部は膨らんではいない。けれど、違和感は相変わらず続いている。妊娠というのは、自分とは異なるものを体内に留まり置いた状態なのだと実感している。  洋子はだるい目覚めを繰り返していた。上梨に戻ってきてずいぶんたったような気がする。だけど、未だ夏は終わっていないので、もしかしたら自分は永遠なる夏の中に閉じ込められているのかもしれない、あるいは上梨自体がゴムのように伸び続けて終焉が見えない夏の中にいるのかもしれない、などと、ぼんやり考える。  両親にはやはり言えないし、知られるわけにはいかないと思っている。  なんとかごまかす手段はないものかと、往生際が悪いことに、未だに洋子は考え続けていた。そのくせ、腹の子の無事を日々喜んでいる。いざなれば中絶することも、今なら可能だと言うのに、どういうわけか洋子には、そんな気は毛頭ないのだった。  「おはよ」  と、決して喜びに満ちた声ではないながら、下腹部に声をかけて起き上がる。寝ても覚めても気分は悪かった。そういえば、途中で気分が悪くなって吐かずにものを食べ終えることができたのは、図書館のピロティ―でゼロと食べた、あのパンだったと思い返す。どうしてあれを食べることができたんだろう、というより、なんでパン屋に行って買い物をしようなどと、わたしは思ったのだろうーー洋子は起き上がり、のそのそと身支度を整えた。寝床の横にポータブルラジオがある。今時ラジオなんか持っている人はそうそういないと思ってはいるが、洋子はラジオが好きなのだった。これは、小学生時代、オールナイトニッポンにはまって以来、ずっと続いている。  手持無沙汰だったり、なにもすることがなくてだるくて仕方がない時にラジオをつける。そうすれば、ニュースに置き去りにされることはないような気がした。  今日も洋子はラジオをつけた。  服を纏いーーかんたんなTシャツワンピだ。軽い室内着が欲しくて、ネットで注文した。お届け先住所を入力する時、ここの住所を思い出せなくて焦った。昔はどんなものでもすぐに記憶することができたのに、今の洋子は自分の住む住所すら、なかなか覚えることができないのだ。  (こんなに老いていて、子供を育てることができるのだろうか)  この不安は恐怖に近い。けれど、ふっと込み上げるこういった悩みに対し、次の瞬間には「ああ、産む前提になっている」と改めて自覚し、別の不安ががばっと頭をもたげてくる。洋子はまるで、重たく垂れこめる悩みのカーテンの中にいるようだった。妊婦の悩みなど、「誰もが経験すること」として片づけられる。だから、産科の医師や看護師にぼやいたとして、もちろんその悩みは温かな励ましと言う形で拭い去られるのだけど、その悩みが一つ消えたからと言って、状況が良くなるわけではないのだった。  ラジオは賑やかしく朝の番組を流し続ける。  カーテンを開くと眩しい夏の光が部屋に溢れこむ。風ひとつないようだった。窓を開く気にはとうていなれなかった。部屋は冷房がきき、とても快適だったが、妊婦には冷房のかけすぎは良くないと言われている。  (わたしはどうなるんだろう)  腹の子のことではなく、自分自身の身を案じている。洋子は、自分の心の中が醜くてとても嫌だった。普通、妊婦は自分のことより子供のことを案じるものではないのか。それができない時点で、自分は人間として欠陥品なのではないのか。    つらつらと、とめどもないことを考えている。どの考えも面白いものではなかった。おまけに、あのパンのことを思い出してしまったものだから、洋子の頭の中には、ゼロのことが蘇っていた。それから、あの忌まわしい「嫌われ組」のことーーあんなものに、自分が入れられていたなんて思い出したくもない、なんとかして、あの過去をなかったことにできないものかしらーーそれにしても、ゼロはなんであんなことを言ったんだろう。  なんだったっけ。  そうだ。ゼロはこんなふうなことを言った。あの中で、自分が一番「嫌われ組」に相応しいのだと。    「はい、今日のゲストは、上梨町在住の素敵主婦、山越香織さんでーす」  ふいにラジオが楽し気に叫んだ。洋子は窓の外の眩しさに目をすぼめながら、それを聞いていた。    「山越さんは、ご主人が〇〇製薬の企画部長をなさっておられる関係で、いろいろな効能が期待できるハーブティーにお詳しいんですよね」  ラジオDJは陽気に喋り続ける。  「ご自宅でサロンをしておられますが、かなりの評判のようですよ。素敵主婦として推薦してくださったリスナーの方も、十人以上おられましたね。なかなか、こんなに推薦してくれる人って集まりませんよ」  うふん、というような笑い声が聞こえた。それを聞いた瞬間、洋子は全身の鳥肌が立った。一瞬にして洋子は「山越香織」が、かつて上梨小六年で権威を振るった正義グループのトップだったことを思い出した。そして、自分が彼女にされたことを、一度に思い出してしまい、呼吸が止まりかけたのだった。  「趣味でやってることなんですよ。ハーブティーで喜んでくださる方も多いですしね。いろいろとアドバイスもさしあげておりますの」  と、香織は言った。洋子は、香織がどんな表情でしゃべっているのか、生々しく見えるような気がした。  「げえ」  洋子は猛烈な嘔気に襲われる。口を押えながらトイレにかけこむと、便器に胃液を吐いた。粘っこい苦いものが口から糸を引いて便器の中の水に流れ落ちる。全身が収縮するようだった。吐くのは腹に圧力がかかるので子供に悪いことも分かっている。けれど、嘔気はとめられなかった。  なんであいつがなんでなんでなんでなんでなんでなんで。  気持ち悪いのはなおらない。が、吐くものがないので、トイレにこれ以上いる必要はなくなった。ふらふらとトイレから出てきて部屋に戻ると、幸いラジオは、「素敵主婦きらきら」のコーナーを終了していた。かわりにラジオはローカルニュースを吐き出している。  「上梨小六年女子失踪事件のニュースです」  アナウンサーが機械的に話している。  「七月に失踪した早瀬花音ちゃんに続き、二日前、大森みらんちゃんが失踪しました。二人とも依然として行方が分からないままです。どんな些細な情報でも構いません、情報をお持ちの方はこちらのダイヤルまで・・・・・・」  ぴぴっ。速報のアラームが鳴った。すると、アナウンサーは少し戸惑ったように「エ・・・・・・」と呟き、スタジオのノイズが混じった。やがてアナウンサーはまた喋り始めた。  「ただいま速報が入りました。本日、上梨小六年女子の有田里亜ちゃんが行方不明であることがわかりました。えー、速報です。上梨小六年、有田里亜ちゃんが、夏休み中の学童利用中に失踪しました。建物から出た形跡はなく、外履きも残っているとのことです。警察は、何者かが建物に侵入し、里亜ちゃんを誘い出したのではと見ています。なお」  ここでアナウンサーは一瞬、唾を飲んだように思われた。  「なお、この事件が、一連の上梨小六年女子失踪事件のひとつである可能性について、本日午後一時から、県警本部長による記者会見があるとのことです」  ピロリン。  スマホが音を立てて、洋子はぎくりとした。背中に冷たいものが走るようだった。メールが来ている。開いてみると、ゼロからだったので目を見開いた。もしかしたら、ゼロからもらう初めてのメールかもしれない。  なんだろう。近日中にある、「嫌われ組」の同窓会の件だろうか。中華料理店で開かれるというその集まりに、洋子も行くつもりではある。中華料理なんか受け付けないというのに、どうしても行かなくてはならないような気がしている。  しかし、メールの内容は、そんなものではなかった。    「もやしがァ」  と、洋子は思わずひっくり返った声で呟いていた。  怜の姪っ子が、大友優ーーもやしーーに、誘い出されてずっと戻っていないようなのだ、と、そのメールにはあった。  「大友君の家に、一緒に行ってもらえませんか。岸本さんにもお願いしてあります」  かつて仲間だったトモダチたちが行けば、事態はそう悪くならないかもしれない。怜の文面からは、そんな思いが読み取れた。洋子は呆然として、そのメール文を眺めていた。 **
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