7/7
前へ
/46ページ
次へ
 おかあさん、おかあさーん。  ここはどこなの、ねえ、ここから出してよぉ。  悲鳴が反響する闇の中で、「それ」は三日月形に唇を笑みくずれさせている。さっきまで現実の世界で生きていた、さっきまで誰か特定の気に入らない奴の悪口を言ってうさを晴らしていた、夏休みの宿題や、母親の財布から今度はいくらちょろまかそうかと考えていた。だけど、まるで落とし穴を踏み抜いたかのように、突如世界がくるりと反転し、この闇の世界に落ち込んでしまった。  ここには「時」がない。だから、今がいつなのか、どれくらい時間がたったのかも分からないーーあるいはそれは、恩恵なのかもしれなかった。蜘蛛の巣に取り込まれた獲物たちが、無駄に苦痛なく「吸い取られる」ために。  そうだ。吸い取るのだ。  これは美味しい。そして、吸い取れば、向こう三十年は安泰だ。はらいっぱいになり、寝て暮らすことができるようになる。  ただし、吸い取った「栄養」が消化されると、たちまち寂しさが全身を支配する。寝ていられなくなり、ふらふら彷徨い出ずにはいられなくなる。新たな獲物を見つけなくてはならなくなる。  ちょうど、三十年のスパンで。  うわあああああ、おねがい、うちに帰りたいいいいいいいっ。  ひいいいいいいいっ。  ああああああああああん、あんあん、あああああっ。  正気の沙汰ではない泣き声。悲鳴も涙も、「それ」にとっては妙なる音楽となる。うっとりと酔いしれてしまう。「それ」は心から、そういったものを愛する。  「怖いよねエ」  にっこり笑う。目を細くして、唇を三日月の形にして。白い丸い顔は闇の中で浮き上がる。獲物たちは、その丸い顔だけしか見えないーーそれもまた、恩恵なのかもしれなかったーー顔以外の本体は見ないで済んでいる。もし「それ」の本体を見てしまったら、精神を保っていられるか怪しいだろう。  この闇は、ぶあつく編み込まれた蜘蛛の糸のてまりの中である。一筋の光も通さない、ここは現実から隔たれた治外法権の次元だ。なにが正義か、なにが悪なのかも計り知れない場所なのだ。そして、小さく愛嬌ある白い丸顔の童の顔は、巨大な蜘蛛の体を持っているのだった。闇に紛れて姿が見えないために、三人の獲物たちはーー今や、ここに落とし込まれた獲物は三人となった。これで十分な数となったのだーーより悍ましい思いをしないで済んでいる。  「それ」は嬉しそうに言う。どこか、親愛を込めた声音だった。  「キミたちは、どうして意地悪をしたの。楽しかったよねエ、自分が強くなった気がしたもんねエ、どう、本気でキミらは、キミらが目の敵にした子たちのことを、そんなふうに、性格悪いだとか、ブスだとか、最低だとか、思っていたわけ、ネエ」  今から遊ぼうよ、うちに来てゲームしない?  そんな感じの言い方、調子で、「それ」は言う。  べちゃべちゃに泣きぬれて、恐怖のために失禁までしている三人の「獲物」らのことを、「それ」は心の底から好いているのだった。否、正確に言えば、「獲物」らの中にある、美味しいエキスの部分が好きなのだった。それは陰険、粘着、陰湿、八つ当たり、妬み、嫉妬ーー様々なスパイスが利いている。これほど美味なごちそうは、この地上には他にないと思われるのだった。  「うあああああ、ごめん、ごめんなさいいいいいい」  「ああああん、あんあん、ひいいいっ」  「あーん、ごめんなさいいいいい、おもってない、おもってないです、そんなこと、おもってないいィ」  じゃあ、どうして?  なんで、思ってもないことを言って、ターゲットを追い詰めて行ったりしたの。ほかのみんなを巻き込んで、ターゲットを悪者に仕立てようとしたの。掲示板にまで書き込んで煽ったりしたの。楽しかったんだよね。ううん、別にいけないって言ってるわけじゃないよォ、楽しいことは良いことじゃん、ネエ、ふふ、うっふふふふふふ。  「ヒイイイイイイ、ごめん、なさい、ごめん、なさあいいっ、もう、もうしない、もうしないっ」  「だからうちに帰して」  「おかあさん、おかあさーんっ、ああああん、あん」  エエー、楽しかったんならいいじゃん、なんで泣くのォ。それにぃ、しちゃったことは消えないよ。もうしちゃったんだよ、キミらは。ね、しちゃったの。それとも、ネエ、キミら、自分たちのしちゃったこととか、そんなことをしてしまう自分たちの悪い心とか、消えてほしいって言うのぉ。  うふふ、うっふふふふふ。  三日月型の唇から、舌がちらりと覗いた。    「できないこと、ないよぉ。ただし、ね」  後悔するようなことをしてしまう悪い心を消し去ることはできる。でも、それには条件がある。  「それ」は、そう告げる。  どう、これは交渉なんだけど?  乗ってみる、ね、どうする。  獲物たちは理性を失っている。相手が普通の人間ではないことを分かっているはずなのに、その交渉が、怒涛の流れに押されてゆく体を陸につなぎとめてくれる、一筋の藁のように見えてしまう。  「その条件を飲んだら、もといたところに帰してくれるの」  と、獲物は言う。  「それ」は、細い目をうっすら開いた。そこには赤く光眼球が見える。「それ」は、こくんと頷いた。いいよ、帰してあげる。キミらの悪い心を残らず吸い取ってあげる。そのかわり、ね・・・・・・。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加