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 マージンは取りすぎてはならないし、詰めすぎてもならない。「読ませる」本にするならば、デザインはシンプルなものが良い。デザイナーが主張しすぎては、一体、なんのための本なのか。  (読み易くてナンボじゃないの)    頭痛のせいで目が覚めた。無意識に左手でとなりを探るが、あまりにも空虚な手ごたえのために、はっとしたーーいない、またかーーぞわっと毛穴が立つような感覚。むらむらっと込み上げるのは怒りに似ているが、怒りではない。どちらかと言えば悲しみ。  悲しみすぎると、自分の中に得体のしれないものが入り込む。自分が自分ではなくなる。だから、別れようと思った。  そうだ、別れたのだ。もう、とっくに。    目を開くと、真っ白な天井があった。田舎町で唯一のウィークリーマンション。本来はアパートだが、田舎過ぎて誰も使わないので、せめてもっと融通を効かせようと一週間単位で貸し出すプランを設けた。どっちにしろ、儲かるわけがない。コンビニは数えるほどしかなく、二つあるスーパーに行くにも、このアパートからでは遠すぎる。  寝すぎて体が痛かった。  久美は、若干太り過ぎた体を重たく起こしながら、枕もとのスマホと眼鏡を手に取る。上梨に戻って、はや二週間目に入る。いい加減、なんとかしなくてはと思うが、この町は何をするにしても具合が悪すぎた。いっそ、県庁所在地まで出て、そこでアパートを借りようかと思ったが、それでは意味がないとすぐに気づいた。  静養のために戻ってきているのだ。故郷に。  県庁所在地となれば、ただの都会だ。今まで仕事をしてきた場所となんら変わりがない。久美は静謐が欲しかった。みんな関係ない、わたしはわたしだけで空気が吸いたい。社会人になって二十年、自分は頑張りすぎた。筋金入りの昔根性の編集者としてアナログな知識を精いっぱい駆使して、良いものを作り上げてきた。  今はなんでもデジタル化している。  おかげで費用がかからず済んでいる。なんでもかんでも好きなようにできる。ちょっと前の「組版」では、考えもつかなかった型破りなデザインも、どんどん出回っている。常識が通用しなくなっている。新人が、斬新さは正義なりといった顔で、さもできるような様子で、とんでもないいい加減なものを、ざっぱざっぱと世間に送り出している。  質が落ちている。  声を枯らして叫びたくても、もはや自分の声など誰にも届かない。一方で、確かにアナログな知識は必要とされている。それはそうだ、基本はどこにでもあるのだから。    「今の子は基本がないままパソコンでなんでも進めてしまう」  辞めようとする久美を引き留めてくれたのは、社長だった。編集プロダクションを立ち上げ、必死に経営してきた生粋の編集者だ。ぶあつく古めかしい編集校正のテキストを後生大事に読み返し、もう何十年もこの仕事を続けているくせに、未だその本を参考に、飾らないつまらない読み易い上質な書籍を作ろうとしている。  「岸本君は、必要な編集者だ。出来合いの編集者は現れてはすぐに流れて消えてしまうが、岸本君はいつまでも根付く仕事をするだろう」  しわしわの茶色い手には、校正の朱がこびりついている。ペンと紙。編集者はそこから離れられない、というか、離れてはならない。時代がなにをどれほど叫ぼうとも。  「退職を認めたわけではない。これは休職だ」  と、社長は言った。  それも、とてもアナログな考え方であることを久美はよく分かっていた。今時、社員は好きなように辞める権利を持っている。それを引き留めるのは越権行為であり、下手をすれば法で裁かれなくてはならない。  いくら社長でも、その常識は知っているはずだ。だけど、やはり古い頭だから、古い言葉を吐き出してしまうのだ。  古いものは役に立たないのだ。良いものであることは分かっているけれど、時代が認めないなら仕方がない。  休職。  仕事からの休息。人生からの休息。確かにこの田舎は、骨休めには最適だと思う。なにせ、アパートから出ても、滅多に人と出くわさないのだから。  だるい体を持ち上げるように立ち上がる。畳にしかれた布団は一組だけ。別れた男は、今どこで何をしているか分からない。ましてや、久美がこの上梨にいることなど知っているわけもない。男は若かった。その若さが良いと思って、長く付き合った。やがて男の若さは永遠ではないことに、久美も、男自身も気づき始めた。男は若さにしがみつこうと必死になっていたし、久美は男に若くいて欲しかった。  若さこそ価値があること。だけどその価値観は、根本から久美の性質と食い違うものだった。結果、男は久美を食い荒らすことしかしなかったし、久美は男をこれっぽちも愛していなかった。お互い、誰でも良かった。少なくとも久美の方がそれに気づき、別れを切り出したのだった。  ちゃぶ台には昨日買い置きしておいたコンビニ弁当が乗っている。歩いて三十分の場所にコンビニがあり、毎日そこまで散歩して戻ってくるのが日課になっていた。久美の休養には、無理のない運動も含まれている。  どっしりと座り込むと、コンビニ弁当を開いた。総菜の臭いがむうっとたった。冷蔵庫がないから、弁当の下に保冷剤を置いていた。とっくに保冷材は解凍していた。  ちらちらとスマホを眺めてニュースを吸収する。メディアから離れられないのは、もう病気だと思っている。世界ではなにが起きているか、日本の経済は今、どうなっているのか。人より遅れるのはプライドが許さなかった。  編集者として。  ポータルサイトのニュースを流し読みしていたが、思いがけず「上梨」という文字を拾い上げ、はっとした。  上梨。上梨小学校六年女児。  なにかぞわぞわと背中に走るーーなんだろう、この既視感はーー機械的にニュースを拾い上げる。「もっと読む」のボタンを押すーー上梨小学校六年女児、プールの授業中に謎の失踪、事件性、警察。ごくんと卵焼きを飲み込んだ。傷みかけた酸い味が舌を不快に刺激し、一瞬、えづきかけた。  るるるるるる。  その時、スマホが震えながら着信音を発した。  とがった目つきで久美はスマホを睨んだ。「もやし」と、そこには表示されている。もやし。スーパーで売っている、あれではない。もやしは、もやしだ。このタイミングでもやしから電話がきたことと、もやしの電話が自分のスマホに登録されていたことに、衝撃を受けた。いつ。どうして。でも登録されている。  記憶の中に空白があるらしい。久美はなにか、ぞうっとした。  時間を見ると、もう昼の12時を過ぎている。旧友から電話がかかってくるのに非常識な時間ではなかった。  久美は恐る恐る、電話に出た。 **
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