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 上梨は「薬の町」だ。  他にウリがない、という陰口も聞かれるが、上梨町に全国規模の製薬会社の本社がいくつもあるのは事実だ。それは、大昔に売薬で栄えた歴史があるからだろう。  上梨に生まれた者は、人生のどこかで、この田舎に留まるか、もっと都会に出てゆくかの二択を迫られることが必ずある。出ていくものは多い。だから、上梨の人口はいつまでたっても増えないのだった。だけど、留まる者も確かにいる。上梨に留まる者には二種類ある。住居が上梨だが勤め先や学校が上梨以外の、もっと開けた場所だというタイプと、勤め先も上梨というタイプだ。もちろん前者が圧倒的に多いのだが、後者の場合、その七割がたの勤め先が製薬会社もしくは薬関係なのだった。また、外部から上梨に勤めに来る者も確かにいて、そのほとんどが製薬会社の従業員である。    上梨の薬は良い薬。    山から流れてくる清らかな水。これには、大自然に宿る神の恩恵が溶け込んでいる。上梨には湧水がいくつかあり、それらは「なになにの名水」といった、それらしい名称がついているのだった。名水の信者は、季節を問わず上梨を訪れ、大きなタンクを持参し、ありがたい名水をたっぷりもらって帰ってゆく。  その、霊験あらたかな名水と、山由来の薬草が、上梨の薬の原点だ。    それはともかくとして、上梨には、薬で利益を得る者がたくさんいる。  山越香織もその一人だ。香織は二十歳の時、上梨の清水薬品に入社した。生産管理部の事務の仕事をしており、工場と事務所を行き来していた。そこで、今の夫である山越氏と出会った。当時、山越氏は結婚していたが、香織のあれこれの策略に陥落し、シナリオに書かれたかのように、するっと家庭を捨て、さらっと香織と再婚したのだった。  (欲しいものは手に入れなくては。ただ欲しがっているだけでは意味がない)  香織は子供のころからそうだった。  嫌いなものは弱いこと、悩むこと。弱者ほどおぞましいものは、この世にないと思っている。自分だけは絶対に弱者になどならない、常に勝者でいなくてはいけないのだった。  その自分ルールをブレずに貫き続けたことは、確かに凄いことだったかもしれない。そのおかげで、今の香織がーー清水薬品の重役の妻ーーあるのだ。    もともと香織は裕福な家の娘だ。子供のころから軽井沢の別荘、海外旅行、留学といった華やかなものの味を知っている。  今、香織は薬品会社の重役の妻として上梨の邸宅に住んでいるが、周囲から見てたいそう贅沢な生活をしているように思われていても、自分では大して感じていない。むしろ、こんな上梨なんかで地味な生活をしていてつまらない、納得できないと思っている。今に夫が東京の支社に異動になり、そのこ支店長のような地位につけばよいと思っている。そうなれば、もっと自分の望む生活が手に入るはずだと思っている。  その願いは叶う。叶わなくてはならないのだ。なぜなら、山越香織は「勝者」なのだから。  「真鍋健太君も、ずっと前から帰っている。瀬川大翔君も。驚くじゃない、わたしたち全員、同じ上梨にいたのよ」  そんな連絡が所沢愛華から入ったのは、昨日のはなしだ。  実に二十年以上ぶりの連絡である。愛華とは大の仲良しだったはずだが、ある時期からなんとなく疎遠になった。香織も、愛華のことや、愛華と疎遠になった原因など、ほとんど忘れていた。小学六年の記憶など、あつぼったい埃を被り続け、色あせて見えなくなった写真のようなものだった。  香織はゆったりと自宅のリビングでくつろぐ。  今日は、友達たちはうちにこない。香織のうちは、華やかな女たちのサロンのようになっている。食器棚にはたくさんの種類の紅茶やコーヒーが並んでおり、喫茶店顔負けの上質なものを客たちに提供することができる。  製薬会社の重役の家らしく、棚の中には「目が良くなるお茶」や「ハト麦エキス」なども並んでいる。香織はそんなものを飲みはしない。健康や美貌を保つために、そんな安価で大して美味しくもないものを使うなど、考えられない。  ちらっとその、夫の会社で作られた品々を眺めてから、香織が取り出したのはフレーバーティーだった。沸かしたお湯でお茶を入れ、くつろぎながらそれを飲む。快適な空間、なんら心配事のない時間。  いつものありふれた時間のはずだった、香織にとって。  だが、今日に限り、なにかモヤモヤとしている。原因は、昨日突然届いた、愛華からのメールに他ならなかった。  真鍋健太君も。  瀬川大翔君も。  そして、わたし、所沢愛華も、ずっとこの上梨にいるのよ。近いところにいたのよ。知らなかったでしょう?    弱いものを憎み、いっそ消えろとまで思っていた。そういった共通の思考を持つ、強者の仲間。  そうだ、「嫌われ組」。あれを作り上げたのも、香織と仲間たちだ。弱者は嫌らしいものだ。足並みそろえてなにかをする時に、きまってみんなの邪魔をする。気分を下げる。そんなものを排除するのは正義だ。先生たちは、その正義を認めないけれど、それは建前なのだ。実は先生たちだって、弱虫嫌われもの共を、邪魔に思っている。見え見えだ。  「やろうぜ」  無言で目配せしあい、正義の鉄槌を下し続けた。  それは快感だった。あの時期、香織は充実していた。まるで、テレビアニメの戦う魔法少女のように自分は活躍しているのだと思っていた。  なのに、ある時期から、ガラリと変わった。  真鍋健太は、近所の迷惑者の年寄りを気にかけ、あれこれ注文の多い買い物に付き合うほどのお人よしになった。  瀬川大翔は、おとなしくて気の弱い眼鏡の女子生徒に告白され、さんざん悩んだ挙句、付き合い始めた。スクールカーストの、下のほうにいるような、そんな子と。  所沢愛華は、障害を持つ同学年の子と仲良くなり、手話を覚えたり、福祉施設にボランティアに行くようになった。  (つまんない奴ら)  香織に言わせれば、強者を貫くことができなかった真鍋健太も、瀬川大翔も、所沢愛華も、弱者なのだった。  そんな弱者が、どうして今になって友達面して自分に近づいてくるのだろう。腹ただしく思いながらも、どういうわけか、その知らせを受けて心が揺れている。  香織は認められないのだった。  真鍋健太、瀬川大翔、所沢愛華が、自分を友達だと思っていること。そしてそれを感じ、心の底では痺れるような安堵を抱いていることを。  それにしても。  フレーバーティーを味わいながら、香織はふと思う。それは、遠い昔、まさにその転換期に、さんざん悩んだことだ。  それにしても、どうして三人は、いきなり豹変したのだろう。  なにがあって?  思い出せそうだった。  けれど、思い出したくないような気もしている。  じれじれと気持ちが悪いので、すっぱり綺麗に思い出したいと、香織は願った。そうするとーーアハ、呼んだぁ、呼んだでしょーー急にむくむくと記憶が頭をもたげ、三日月のように口の端を大きく釣り上げた、なにかの顔が思い浮かんだのだった。 **
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