神保長住

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神保長住

 三月、曇天の下、幅が広がった峡谷の底に(みどり)の水が湛えられている。神通川の流れは静かだった。まだ雪の残る険しく細い道を、飛騨から軍勢と共に越えてきた。ようやく越中に入ったという実感が、神保長住の胸に湧いた。  長住は、織田信長に附けられた副将の佐々長穐(ながあき)を呼んだ。 「ようやく平地が見えてまいった。ここからは道程も捗りましょう」 「長穐殿、先行している隊の速度を緩め、後続が追いつけるようにして下され。隊列を整えるのです。ここはもう越中。国人たちが我ら織田方を見ております。隙を見せてはなりません」  そうでござった、と白髪混じりの頭を掻きながら、佐々長穐は兵の先頭に戻っていった。  広大な越中、国人たちの誰が敵で、誰が味方かわからない。この国は長住の故郷であり、本来神保家が治めるべき国だ。しかし、越後の上杉謙信の侵攻が激しすぎた。その謙信亡き後、越中の者たちは不安で揺れていよう。  その晩、長住らは城生(じょうのう)城で宿営した。城主の斎藤信和は、飛騨口から婦負郡中部に勢力を伸ばす国人領主で、美濃・尾張の情勢にも明るく、織田方に附くようにという働きかけに一早く応じた。  斎藤信和は、長住らを歓迎すると酒宴を開いた。 「神保殿、この度の手勢は千人ほどですが、織田殿はいつ援軍を送られまするか」 「当面はこの軍勢で戦う。後はお主らのような越中の武士の力を集めることになる」 「織田殿は十万もの軍勢を持ちながら、越中にたった千とは、吝嗇なことよ」  我慢ならぬ、という風に、佐々長穐が割りこんできた。 「東の武田、西の毛利、さらには加賀の一向宗の平定にも兵が要る。四方に軍勢を出さねばならぬのじゃ」  まずいな。長住は思った。 「もちろん上杉勢が動き出せば、信長殿はすぐに援軍を送って下さる。そう約束された」  斎藤信和が露骨に安堵した顔をした。本当は信長と何の約束もしていない。しかし、織田恃むに足らず、と思わせる訳にはいかなかった。  この男も、いつ上杉方に寝返るかわからないのだ。 「ところで、長住様らは、どちらの城に入られますか。滝山城でしょうか」  城生城から井田川を下ってすぐの山上に建つ滝山城は交通の要衝に近く、父・長職からの神保家の本拠であり、領地もある、長住には懐かしい場所だ。が長住は言った。 「目指すは、富山城じゃ」  斎藤信和があんぐりと口を開けた。 「富山……確かに、お父上ゆかりの城ですが、あのような辺境の小城、要害でもなく、洪水もしばしば、何より敵の真中ではござらぬか」 「だからよ、敵は上杉のみ」  長住はわざと豪放に笑った。滝山城は今、上杉方の国人が入っている。上杉方に附いていても国人の城は攻めぬ。織田方に寝返れば、いつでも帰参を認める。その姿勢は、明確に越中の武士たちに知らせねばならない。兵力に限りがある以上、無用な戦は避けねばならなかった。 「富山城を回復するには、まだまだ越中の武士の力を集めねばならん」
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