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社員食堂を出た時、ズボンのポケットでスマートフォンが小さく震えた。暁斗はエレベーターホールで画面を確認し、送信元の名に心臓が跳ねたのを自覚した。
「空港での検査が陰性だったので、今ホテルの部屋に入りました」
スワイプして現れたメッセージに、あ、と声が出てしまった。横にいた社員に見上げられて、すみません、と思わず言う。
「本当にお疲れ様。行ってもいいなら、必要なものを持参します」
暁斗はもどかしくそう打ち込んで送信してから、やたらに焦る自分に苦笑した。ひとつ深呼吸して、エレベーターに乗り込んだ。返信は直ぐに来た。ぺこり、と頭を下げる犬のスタンプがついている。
「会うのはだめです。ごめんなさい。暁斗さんがいいのなら、最近読んで面白いと思った本と、国産のチョコレートを持って来てほしいです」
暁斗が営業課の部屋に戻ると、部下たちが一斉に彼の顔を見た。彼が妙に大きな足音を立て、真っ赤な顔をして入って来たからだ。
「桂山課長、どうかしましたか?」
手島が不審げに暁斗を見ていた。暁斗は嬉しさのあまり、酒も入っていないのに、口を滑らせてしまう。
「彼が成田に着いて……」
「えっ!」
手島に何か指示していた課長補佐の花谷が、マスクの上から覗く目を丸くした。おおっ、と場がどよめく。花谷はやけに楽しげに言った。
「そうなんですね、今すぐ迎えに行ってあげたらいいじゃないですか!」
「アメリカから帰国した人は3日間強制隔離なんですよ、これからお客さんも来るし課長は帰っちゃダメです」
長山がピシリと先輩である花谷に言う。その様子に笑いが起きる。
暁斗は4年前にゲイであることをカミングアウトしている。アメリカで勉強している10歳年下の同性の恋人を、彼が健気に待ち続けていることも、社内の多くの者が知っていた。
「明日早退させてもらおうかな」
暁斗は言って、平静を装いながらデスクに戻った。相当気持ちを締めてかからないと、これから来る客との商談が上手く進められそうにない。奏人からのメッセージを3回読み返してから、暁斗は了解、と言って笑うクマのスタンプを送った。
本当なら成田に飛んで行きたい。切なくなった。やっと会える。やっとその頬に触れることができる、いつも自分たちを隔てた距離を越えて。
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