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2 Blessed are they that mourn
翌日も雨だった。まだ17時になったばかりなのに薄暗い。例年なら残暑が厳しい時期だが、風が強いこともあり、ジャケットを羽織ってちょうど良かった。会社を早退した暁斗は成田空港駅まで行き、タクシーに乗った。
厚生労働省が強制隔離対象者のために借り上げているというホテルの車付けには人気が無く、自動ドアの開く音がやたらに大きく響く。フロントに人がいるのを見て、暁斗の不安が和らいだ。
暁斗が701号室に差し入れを持参した旨を告げると、フロントの男性は、てきぱきと所定の用紙を出した。暁斗は指示に従い、それに名前や住所を記入する。本人との関係を問われ、少し迷って「友人」と書き込んだ。身分と行動範囲を明らかにしておくため、名刺も渡した。
「ご丁寧にありがとうございます、確かに承りました、7時の夕食の際に高崎様にお届けいたします」
「お願いします」
……この7階にいるのに、会えないのか。
雨よけのナイロンを被せられた書店の紙袋が、自分と奏人を繋ぐたったひとつの証しのような気がして、暁斗はそれがフロントの裏手に運ばれるのを、切ない思いで見つめた。
閑散としたロビーで、奏人にLINEをしようとした時、スマートフォンが震えた。画面が、彼からの電話の着信を告げている。暁斗は驚いて、上擦った声でもしもし、と応じる。
「暁斗さん、今何処にいるの?」
聴覚に流れ込むその声に、暁斗の胸が締めつけられた。どぎまぎと答える。
「えっと、今フロントに本と食べ物を渡したよ」
「下にいるんだね、嬉しい、ありがとう……外に出てきて、僕の部屋は入口側だから見えると思う」
愛しい声の命じるままに、暁斗は小走りで自動ドアをくぐる。傘を開くのももどかしく、雨の打ちつける道路に飛び出して、建物を見上げた。ぽつぽつと部屋の明かりが入っている。暁斗は窓を数えて、7階と思しき場所を見上げた。傘が雨を防ぎ切れず、顔に水しぶきがかかる。
暁斗は愛しい姿を見つけた。目一杯開けられた片開きの窓から、腕を出す華奢な男性。その部屋だけ、清らかな光に満たされているように見えた。
「暁斗さん!」
スマートフォンと頭上の両方から声が響いた。雨の音に、辛うじてかき消されずに。
「ごめんね、もうちょっとだけ待って、絶対暁斗さんのところに帰るから!」
暁斗はスマートフォンを持ち換えて、マスクを外し、奏人に手を振り返す。窓から出た彼の右腕は、きっとずぶ濡れだろう。
「わかってる、必ず奏人さんを迎えに行くから……頑張って!」
暁斗は力一杯、声を張り上げた。奏人に聞こえたのだろう、表情ははっきり見えないが、頷いているのは分かった。
嬉しさと寂しさがないまぜになり、涙が溢れ出す。奏人の姿が滲み、もう声が出なかった。自分の顔を濡らしているのが、雨なのか涙なのか、最早わからない。
「奏人さん、風邪を引くから窓は閉めて……いい報告を待ってる」
暁斗は涙声を悟られないよう、ゆっくりスマートフォンに声を送った。
「うん、暁斗さんこそ帰ったらすぐ着替えなきゃだめだよ、ほんとにありがとう」
奏人の声に、上を見たまま、名残惜しくもう一度手を振る。ふと右手を見ると、3メートルほど離れた場所で、暁斗と全く同じことをしている女性がいた。赤い花柄の傘を差し、上を見ながら涙をハンカチで拭いている。相手は6階の男性で、やはり彼女に向かって手を振っていた。
赤い傘の女性がこちらを見た。暁斗はマスクをつけて、彼女に軽く会釈した。シンパシーを覚えていた。
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