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「やぁ、お待たせ」
と言ってやつが戻ってきたのが部屋を出てニ十分後であったの五分後であったのか俺には判別がつかなかった。いずれにせよ俺の気持ちの整理がついていないという点でどちらも変わりはなく、どちらでも意味はないと思い何も言う気力も湧き起こらず俺は犬でも追い払うように手だけを振った。
「なんだ、まだ『事実』が受け入れられないのかい?……意外だねぇ、キミほどのデジタル信奉者ならあっさり受け入れてくると思ったのに」
言いながらヤツが俺の脇をすり抜け『じぇん』.....さんに近づく。その時フッとヤツに違和感を感じたが俺はその理由を考えもせず口を開く。
「……出来るかよ。俺は……人間なんだぜ?たしかに技術としてのデジタルは好きだ、でも、それを作り上げるものには、その裏には人の……!」
「……『情熱が欲しい』かい?でも、そんなものは慣れの問題でしかない。現に君は食事をすべて無味乾燥な栄養剤で済ませ、味を楽しみたいときは仮想世界のものを利用しているじゃないか?食は人間の三大欲求なんて言われてるけど、それをキミはあっさり切り捨て、デジタルの、まやかしの、嘘っぱちの食事を摂って満足している。そこに何の疑問も持たずに、ね」
「それは……」
俺の言葉を引き継ぎそう言ったやつの言葉に俺はやはり反論することができなかった。
「だから大丈夫、すぐ慣れる。人の個性も、想いも、なんなら魂でさえも、いずれ『じぇん』たちが数値化して、データ化してくれる。そしてこの世界のすべては仮想世界に取って変わられる……いや、もうなっているのかな?はっはっは、ごめん、ごめん、ボクはキミほどデジタルが好きなわけじゃないから勘違いしていたよ」
「……お前はそんなに俺を苛めて楽しいのか?」
友人の言葉に俺は気分が悪くなり、栄養剤から溶け出したビタミンの混じった胃液を吐き出しそうになりながら精一杯言った。俺の言葉を聞いた瞬間やつの赤い唇がぐにゃりと曲がる。醜く、目が離せなくなるほど麗しい笑み。
「……愉悦的だね。だってキミには才能があるんだもん。ボクにはすぐにわかったよ。キミにはとてつもない音楽の才能が眠っているって。ほんの少し『じぇん』の音楽に触れて、それで見よう見まねで、だけどキミの個性をふんだんに込め、作った一分ほどの稚拙な曲。それを聞いた瞬間、ボクはキミの才能の大きさに驚き、憧れ、そしてそんなやつが『じぇん』なんてくだらないものに夢中になっていることに憎しみすら覚えた!!」
初めて聞くその友人の告白に俺は目を見開く。まさかやつが俺のことをそんな風に思っていたなんて。
「意外かい?でも、これがボクの本音だ。ああ……そうだね、これは告白だ。ボクはキミが好きなんだ。好きで、好きで仕方なくて……憎んでいる。だってそうだろう、大好きな、愛していると言っても過言ではないキミがよりにもよってボクじゃなく、この、くだらない、ふざけた、醜悪な化け物に夢中になっているんだからね!その姿をずっと見せつけられていたボクの気持ちがキミにわかるか?わからないだろうね、わからないほどキミは『じぇん』を盲信していたんだ!!」
「……」
「だけどボクが君を好きだという気持ちに変わりはないよ?キミが憎いのは、ボクがそれだけキミに夢中な証拠さ。少なくともボクは気に入らない人間に『憎しみ』なんて面倒で、カロリーを使う感情を注げるほどお人好しじゃないからね」そこでやつの顔がスッと俺の顔の傍に寄せられる。瞬間、違和感を感じた。その意味を俺が理解するより先にやつが口を開く。「キミにチャンスを上げる。なんだか面倒くさい女のようなセリフで申し訳ないけど。キミにボクとやり直すチャンスをあげよう……なに、簡単なことさ」
それだけ囁くとやつは俺の傍から身を離す。するといつの間に用意したのかその右手には薄い照明を硬質な色に照り返す、長い鉄パイプのようなものが握られていた。
「今からボクはこの機械を壊す!それをただ、黙って、見ていて欲しい!それだけだ……それだけでボクたちはまたやり直せる。そうしたらキミとボクとで征くんだ……機械が作ったものなんかじゃない、人間の作った音楽が正しく人の希望となり 救いとなる!!そんな当たり前の世界を目指す旅路へ!」
振り上げられる凶器。
それが筐体……『じぇん』さんへと振り下ろされる。
人は瞬間の判断をするとき、その心の奥をさらけ出す。
間に合わない、無理だ、と思った時。俺は自分でも驚くほどの敏捷さで立ち上がり、ぎゅっと目を閉じながらも己の身を盾にして『じぇん』さんを庇った。
自分が怪我するとか、死ぬかもしれないとか、そんなことを度外視した馬鹿げた行動。俺の本音は……人間よりも、友人よりも、この機械を失いたくない、その音を聞き続けていたい、ということだったのだ。
「……そう、それがキミの答えか」
泣き出しそうな友人の声。
いつまでもやってこない衝撃に俺は閉じていた瞳を恐る恐る開く。すると視界に飛び込んできたのは不気味な羽音を思わせるモーター音を奏でる巨大な筐体の群れ。
それだけ。
やつの姿はどこにも、ない。
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