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第一幕 仮想
椅子に腰掛けて息を吸い、右の掌をそっと首筋に添える。すると埋め込み手術で取り付けた起動パネルが反応し、頭の中で小さな電子音を鳴り響かせた。同時に人工眼球の奥では緑色の閃光が瞬き、俺の意識を現実世界から仮想世界へと誘う。
一瞬のブラックアウト。暗闇に包まれる世界。だが、すぐさま視界は反転しゆっくり、世界はまた像を結び始める。先ほどまで見ていた狭苦しい六畳一間の自室は消え、代わって現れるは巨大な都市。原色に輝くネオンと現実なら建築法に反するほど道路に突き出た看板、バベルの塔みたいに高く聳えるビル群に囲まれた猥雑な街。
ここはプラスチックとレアメタル、プログラムと電波で構築された仮想現実世界最大の都市『アルストロメリア』
その只中に現れた俺は思わず「Hello」と呟く。この世に生まれ二十年。俺は……いや、この世界に生きる者のほとんどは人生の大半をこの仮想都市で過ごしている。学校、仕事、友人付き合いから恋愛まで、生きている間起こりうる出来事ほとんど全てをここで経験する。ゆえに現実世界より『仮想』と呼ばれるこの世界で過ごす時間のほうが自然であり、安らぎを覚えるほどだ。おそらくこの感覚は今を生きる人間の共通認識だろう。
感触を確かめるように軽く肩を回す。この世界での俺、つまり化身を動かすのに面倒なキーボード操作は必要ない。現実世界で身体を動かすのと同じように、意識することなく、そうしたいと願った瞬間、アバターは反応してくれる。
それを可能にしているのは大脳新皮質に埋め込まれた極小コンピュータ Brain Machine Interface......通称『BMI』のおかげである。BMIは脳を仮想現実世界へダイレクトに繋ぎ、人の思考をアバターへ、アバターの感覚を脳へともたらす。それにより、この仮想現実世界があたかも現実であるかのように錯覚させるのだ。
たとえば。
氷のたっぷり入ったアイスコーヒーのグラスがあんたのアバターの前にあったとしよう。当然あんたはキンキンに冷えた琥珀色のドリンクの誘惑に抗えず、思わずグラスへと手を伸ばすだろう。するとBMIはしびれる様な冷たさを指先に、口をつければほろ苦さを舌に伝えてくれるのだ。まるで本物のアイスコーヒーを楽しんだ時のように。
だが、仮想現実世界の素晴らしさはそれだけでない。
夕暮れどきの今、きっと現実世界の空には夕陽が眩しく輝いていることだろう。しかしそれは現実世界と時間がリンクした仮想現実世界も同じでビルの谷間を見上げてみれば、そこには血みたいに赤い色した夕焼け空が広がっていた。こうなるともはや仮想現実世界と現実世界を隔てるものなど何もないではないかと俺は思ってしまう。
「さて......行くか」呟き俺は歩き始める。だが、仮想現実世界では自分がよく立ち寄る気に入りの場所は地点登録しておくものが普通だ。今の俺みたいに目的地がハッキリしている場合、皆その機能を使う。そうすれば移動時間0でそこへとジャンプすることが出来て効率的だからだ。だけど、俺はあえて歩き、アルストロメリアの空気にどっぷり浸かりながら移動をすることにしている。デジタル至上主義の俺だがそこだけはアナログ的な手段に拘っている。理由は単純。この世界を隅々まで楽しみたいんだ。
道に大きく突き出した看板やてっぺんが見えないほど巨大なビル群と隙間から見える真っ赤な夕焼け空、そして街を行く千姿万態のアバターたち。そんなものを眺めながら夕暮れどきの街を歩いていると、どこからか食欲を刺激する香ばしい香りが漂ってきた。瞬間(何か食うか?)と考えた。言うまでもないことかもしれないが、美味いものを食いたいなら仮想現実世界で楽しむに限る。余計な脂肪もカロリーもない、この世界で食事を摂ったほうが健康的だからだ。現実世界の身体を維持するに必要な栄養はサプリメントで済ませ、味や食感などの満足は仮想現実世界の食事で済ませるのが一般的だ。
しかし、仮想現実世界に入る直前、生命維持に必要なビタミンとカロリーが含まれたカプセル錠剤を規定の数飲んでいることを思い出す。
それで十分だった。
元々俺は食に興味がない上、この世界では空腹を感じないよう設定してある。ならば食事で無駄な時間を潰す必要などない。そう考え直し音楽スタジオへ足を向ける。
1秒でも早く。俺の相棒、電子の歌姫、歌唱合成ソフトの『かなで』ちゃんに会うために。
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