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「そうだ。お母さん、院内で補聴器してたの?」
「そう。受診の時はお父さんと一緒だったから外してたんだけど、今朝仕事に行く前に持ってきてくれたの。」
「そうだったんだ。」
「育児にはあったほうが便利でしょ?慣れておこうと思って。それに入院中暇だから、スマホで動画を見ても聞こえないとつまらないでしょ?折角個室だからね」
「お父さん大丈夫なのかな?支払い」
「大丈夫よ。たまたま今は空きがなくて個室にいるだけだから、差額ベッド代はないの。もう少し落ち着いたら、大部屋に移動することになるかな。その方がきっとママ友も出来るでしょ?」
「そっか。それなら、やっぱり補聴器も必要だね」
「そうね。最近のは性能が良いから充電できるし、スマホで細かい設定も出来るの。びっくりした」
「へえー。すごいね」
「お父さんが2回目のエンゲージだって、プレゼントしてくれたの。リングより高かったらしい」
母は、女の子みたいに無邪気に笑った。
ああ、相変わらず仲の良い二人だ。
「お母さんね、しばらく仕事は休むことにする。あなたの大学受験の時に、できるだけバックアップしたい。もちろん育児のためもあるけれど、それがあなたのマイナスにならないように環境は整えるつもり」
「無理しないで。きっと可愛いから、私の癒やしになるよ」
「でも、再来年の試験期間には1歳半くらいでしょ?きっと歩いたり走ったり大変よ。栞の邪魔ばっかりしそう」
「そんなときはお父さんに頼ればいいじゃない。体使って遊んで貰おう」
「そうね。太らずに済みそう。・・・お母さん、いつの間にか栞に頼り切ってた。時間は取り戻せないけど、これから出来ることをたくさんしたいの」
「ありがと」
「栞は、いつまで・・・そばにいてくれる?」
私ははっとした。母は、私が家を出て行くことを想像したんだろうか?それとも、陽平が何かを伝えたんだろうか?
「まだ、わからない。ちゃんと、相談するよ。ちゃんと、頼りにしているよ」
「ありがと。陽平君が待ってるから、もう行きなさい」
「うん。分かった。お母さん、お腹触らせて」
「そうね、触って。声かけてあげて。お姉ちゃんだよ~。聞こえるかな~?」
母は蕩けるような笑顔だ。昔の写真で私を抱っこしていたときと同じ笑顔。
お腹を撫でて、母をそっと抱き締めた。
「お母さん、大好き。また来るからね」
母は私の背中を撫でてくれた。
「無理しないで。でも、顔が見られたら嬉しい。」
私は、母から離れてもう一度母の顔を見た。私とよく似た輪郭。口元。
弟君は、どんな姿で現れるんだろう。
もう、気持ちはざわつかない。私は心から弟の誕生を祝福出来る。
「またね」
手を振って、病室を出た。
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