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「歩くか?」
「うん。その方が良さそう。さっき蚊に刺されたの。じっとしてると駄目だね」
「どこ?」
「二の腕」
「許さん。血を吸ったうえに二の腕なんて」
「なんか、怒りのポイントおかしくない?」
「全然」
冗談なのかなんなのか、よくわからない。
陽平の言動は、時々謎だ。
ぶらぶら歩いて駅まで戻り、マックで私は喉を潤し、陽平は、少しだけ空腹を補いこの日は別れた。
明日も会える。
それが堪らなく嬉しい。
一緒にいるとぐるぐる考え事を始めてしまうけれど、一人の時は不思議なくらい勉強に集中できた。
陽平はどうなんだろう?
陽平の足を引っ張るような存在にはなりたくない。自分の目標も陽平の目標も、達成できると良い。二人でいることが、それぞれプラスになる関係でいたいんだ。少なくとも、私にとって陽平はそんな人だ。
夕食の準備に間に合うように帰宅した。父は、リビングで仕事をしていたようだった。
「おかえり」
昼は一緒に食事を済ませていたから、何を作ろうか考えていたら父が言った。
「今日は父さんが作ったぞ」
「ホント?お父さん、お料理作れるの?」
「学生の時はよく作ったよ。いかにも、男飯だけどな。今日はビーフシチューだ」
「すごーい!」
「昼過ぎから煮込んでるから、うまいぞ」
「楽しみ!サラダ作るね」
「…よくわかったな。それ以外何も作ってなかった」
「ご飯も炊いてないでしょ?」
息を飲む音がして思わず笑った。お父さんも、冗談なのか本気なのかわからないところがある。
「ご飯がない。お父さんはアルコールで良いけど、栞はまずいからな」
「大丈夫だよ。冷凍のパンがあるから。お父さんがどうしてもご飯が良いなら今から炊くよ?」
「いや、むしろ思い付いたからワインが良いな。今週末飲んでいなかったから」
「珍しい」
「それどころじゃなかったからな。栞にも心配掛けた。少し、息抜きできたか?」
「うん。楽しかったよ」
「そうか。良かった」
表情に、ほんの少しだけ陰りを感じたのはなぜだろう?
「さ、食べるか!」
父が作ったビーフシチューは何もかも大きくて驚いた。でも、長時間煮込んであるからほろほろ崩れるくらい柔らかくておいしかった。
半分ワインを空けた父は、ソファーに座りそのまま眠ってしまった。
無理矢理起こそうと引っ張ってもダメ。
近くで声をかけ続けると、父は寝言のように呟いた。
「幸せな気持ちにしてあげられるのは、もうお父さんじゃないのか…」
間違いなく、私のことだ。
私はエアコンの設定温度を少しだけ上げて、父にタオルケットを掛けた。
「三人で暮らす時間が戻って、しかも家族が増える。私は幸せだよ」
伝わらなくても良いから、声に出して言いたかった。
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