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夏休みは残すところ十日足らず。次の日も会う約束をした。
お父さんがいるから、栞の家には行けない。うちは全員いるからダメ。妹は最近“適応指導教室“なるものに行き始めたけど、土日はずっと家で過ごす。
中1の時は、母を相手に物を投げつけたり、暴言を吐いたりしていた。
「仕方ないの。こうすることでしか、今は・・・」
臨床心理士として働き、知識や経験がある母でも、我が子の豹変は受け止めがたかったと思う。でも、誰も口にしない一番大きな不安は、妹がこのまま生きるのを諦めてしまうのではないか、ということだった。そのくらい、妹は生気がなかった。
そんな妹が、少しずつ変わってきた。
最近は、美しいものや落ち着きのあるものに関心を持っているようだ。俺が文様を描くようになったのは、妹が「きれい」と声を発したからだ。
妹にはパソコンではなくタブレット。母が管理出来るようにしたのだろう。デザイン画なども描いているようだ。
少しずつ、栞にだけは妹のことを伝えていた。何かあれば、妹のために俺は時間と労力を惜しまないから。周囲の人に理解されなくても、栞には分かって貰いたかった。
シスコンとか、マザコンとか、何度言われたかわからない。我が家の切実な状況を教えるつもりもないけど、よく知らないことに批判やからかいばかり言うのはどうかと思うんだ。
俺がしたくないこと、しないようにしていることの一つ。
緑道を手を繋いで歩いているとき、急に栞が声を上げた。
「ね、見て!あそこ。宮沢賢治の『やまなし』に出てくる、カワハギじゃなくって…」
「カワセミのこと?」
「そう、それ!」
栞がよく知らないことに遭遇する確率は希だから、なぜか少し嬉しくなる。浮かれているとき、俺の耳元に顔を近付けた栞が鳥の居場所を囁いた。
「あ、ほんとだ。いる」
そんなことを言いながら、俺は鳥よりそれを見守る栞の横顔ばっかり見てる。カワセミが飛び立ったと思った瞬間水面にしぶきが上がり、すぐに飛び去った。
栞の唇に触れてすぐ離した。人の歩く気配がしたから。
「・・・カワセミ並み」
「もっと、ゆっくりがいい?」
あたりはまた静かになった。蝉の鳴く声と、時々魚が跳ねる音だけ。こんな暑さだから、いくらここが涼しくてもここまで歩いてくる人はそれほど多くはない。
もう一度重ねた。唇を離した時、栞がわずかに睫を震わせた。少し開いたままの唇がまだ、俺を待ってる気がした。込み上げてくる思いを誤魔化すみたいに笑いながら言った。
「栞が”もっと”って言ってる」
さっきより深く重ねた。最後に、栞の表情を見て上唇と下唇をそれぞれ挟むように触れて、終わらせた。
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