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1 ヒロインにスカウトされました
ニーナ・スカリオーネは、日本人の記憶を持つ転生者だ。
いわゆる中世ヨーロッパ風の世界に平民として転生した。
だが、それだけだ。
背景が日本ではないというだけで、生活していくこと自体は何ら変わりない。
父が早くに亡くなり、母も病気で臥せっているので、バイトでどうにか暮らす日々。
生活保護や医療保険がないぶん、日本より過酷とさえ言える。
何の夢もない現実だ。
――そう現実なのだ。
だから、部屋の窓辺に見知らぬ猫がいて話しかけてくるなんて、ファンタジーな出来事が起こるわけがない。
じっと睨むように見てみるが、やはり窓辺には白い猫がいる。
この猫の口が動いて「こんばんは」と言ったように見えたのだが。
幻覚だけではなく、幻聴まで併発しているということか。
「思った以上に疲れてるのね、私。……寝よう」
「――ま、待ってください」
毛布を捲り上げてベッドに潜り込もうとすると、背後から慌てた様子の声が聞こえる。
仕方なく振り向くと、窓辺にいた猫はベッドの横の机まで近付いていた。
「乙女ゲームのヒロインになりませんか? ……ただし、悪役令嬢にざまぁされますが」
新雪のように美しい白銀の毛並みに、青と金のオッドアイ。
色彩だけでも神々しいその猫に見据えられ、ニーナは思わずため息をついた。
「何それ、最低」
月光を背に輝く白猫は、ニーナの答えに目を細めた。
「……つまり、何? あなたは神の使いだってこと?」
すっかり眠る気が削がれたニーナは、ベッドに座ると机の上の白猫に問いかける。
「そう思っていただいて構いません。あなたが転生者であることはわかっています。だからこそ、話があるので、ここに来ました」
疲労も溜まり過ぎると、クオリティの高い幻覚を見られるようになるものだ。
ニーナの猫好きは深層心理にも働いているらしく、自称神の使いはとても美しい毛並みの猫だった。
どうせ幻覚なら、せっかくの美人な猫を触らない手はない。
手を伸ばして顎の下を撫でるが、特に反応はない。
なるほど。
神の使いという設定なので、普通の猫が喜ぶ撫で方では駄目ということか。
我が幻覚ながら、無駄に凝っている。
とりあえず背中の毛並みを堪能しながら、どこを撫でるべきか考える。
「……あの。何をしているんですか」
「何って。――猫がいたら愛でる。人生の基本でしょう」
ニーナは猫が好きだ。
路地裏で野良猫を見つけたら思わず話しかけてしまうし、あわよくば撫でたい。
滑らかな肌触りの毛並み、宝石のような瞳、美しい肢体、愛らしい仕草。
どれをとっても最高だ。
そんな野良猫マニアのニーナから見ても、この白猫はかなりの美人猫だった。
「次は、肉球をぷにぷにさせて」
「え。いや、まだ話の途中なんですけど」
「掌球と指球の間に、指を入れさせて。あと、後ろ足の毛足の短い部分をなでなでしたい」
心の赴くままに触っていると、白猫がニーナの手からするりと逃げてしまう。
こういう滑らかな動きもまた、たまらない。
「話を聞いてください。あなたに、ヒロインになってもらいたいんです」
「……私の幻覚の割に、言っていることがファンタジーだわね」
「幻覚じゃありませんよ。現実です。ラッキー転生キャンペーンというものがありまして、望み通りの転生人生が送れるんです」
何だ、その適当なネーミングは。
「えー? だったら、お母さんの病気を治して」
幻覚だろうと現実だろうと、それが叶うのならニーナは何だってする。
すると、白猫は首を振った。
猫なのに、妙に仕草が人間じみている。
「いえ、勘違いしないでください。当選者はあなたではありません」
「ええ? さっきヒロインがどうとか言ってたわよね。当選者がヒロインなんじゃないの?」
「最近の流行は、ヒロインよりも悪役令嬢みたいなんです」
「はあ?」
「それも、ヒロインをざまぁするのが今回の当選者の希望で。ところが、ただでさえ人気が下火なヒロインで、しかもざまぁされるとなると、引き受けてくれる人がいません。そこで、あなたに白羽の矢が立ったというわけです」
……どうしよう。
どこから突っ込んだら良いのかわからない。
真面目な顔をして、何を言っているんだろう、この猫。
「……私は乙女ゲームに詳しいわけじゃないし、ヒロインを張れるような美少女でもないわ。無理よ。……大体、ざまぁって何をされるのよ。こちらは何もしていないのに」
「当選者の希望は、中世ヨーロッパ風学園乙女ゲームです」
貴族令嬢として、美貌から教養までてんこ盛りの完璧な悪役令嬢。
家が決めた婚約者がいて、本当は好きだけど上手く伝えきれず。
そんな時に学園に転入してきたヒロインに婚約者を盗られそうになる。
平民のしたたかさと魅力で婚約者だけでなく、周囲も虜にするヒロイン。
口下手が祟って、孤立しかける悪役令嬢。
不運が重なってヒロインに嫌がらせをしてしまう悪役令嬢、ヒロインは嫌がらせをされていると周囲にアピール。
だが、婚約者の危機を身を挺してかばった上に、ヒロインとの恋を涙ながらに応援する姿に、婚約者はようやく誰が自分を愛しているのか気付く。
そして卒業パーティーで本来は悪役令嬢が婚約破棄されるところを、婚約者がヒロインの所業を暴き、愛を告白してハッピーエンドで王族として優雅に暮らす。
「……本人の希望はこんな感じらしいです」
「つまり、悪役令嬢の婚約者を奪い取りかけて、結局は捨てられる役ということね。……これ、どこがヒロインなの? やっていることは悪役じゃない」
「そこはロマンらしいです。悪いように見えて実は良い奴というギャップがたまらないと言っていました」
「それで、何ていうゲームなの?」
「はい?」
「だから、乙女ゲームなんでしょう? 知らないだろうけど、タイトルくらい聞きたいわ」
「それが、実在のゲームではないのです」
「どういうこと?」
「あくまでも、中世ヨーロッパ風学園乙女ゲームっぽい世界観、だそうで。何でも、実在のゲームでは微妙に好みが合わないそうです」
「何なのそれ。じゃあ、当選者の思い通りってこと? ……話を聞く限り、ヒロインに利点がないわ。そりゃあ、引き受けないわよ。何で私の所に来たの?」
白猫は再び机の上に乗ると、長い尻尾をゆらりと揺らす。
「本来は希望者から抽選で選びます。ただ、希望者がいないせいで、いつまでたってもヒロインが見つからなかったんです。悪役令嬢と同時に入学する予定だったのに、間に合いませんでした。そこで今回はヒロインを雇用することになったんです」
「雇用?」
「そうです。ヒロインを演じ、見事ざまぁされた暁には、相応の報酬が与えられます」
報酬という言葉に、ニーナの目が覚める。
「報酬って、何?」
「何でも、と言いたいですが、あなたの母親の病気を治すのは無理です。契約者本人でない限りは、苦痛の緩和はできても、病を取り除くことはできません」
やはり、そんな都合の良い話はないらしい。
わかってはいても、少しだけ落胆してしまう。
「……じゃあ、苦痛の緩和。それと、薬代。これを叶えられるの?」
「もちろんです」
「すべて終わるまで待てないし信用できないから、分割で払ってほしいんだけど」
「もちろん。その上で、成功報酬は弾むと言われています」
そう言って白猫はどこからか小さな紙を取り出す。
そこに提示されていた額はかなりのもので、ニーナは思わず息を呑んだ。
少なくとも母の薬代に困ることはないし、もっと頻回に医者に診せることもできそうだ。
「引き受けてくれますか?」
白猫の問いに、ニーナは首を振った。
「まだよ。契約内容をちゃんと確認してから」
「慎重ですね」
「当然でしょう」
幻覚でも夢でもないというのなら、これはチャンスだ。
ニーナは初めて、自身が転生者であることに感謝した。
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完結まで書き終えているので、サクサク更新予定です。
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