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10 神の使いの風邪薬
気が付くと朝で、エドの姿はもうなかった。
「寒気はもうないわ。熱は……そこそこありそうね」
自分の手を額に当てると、かなり熱い。
さすがに、今日は学園を休むしかなさそうだ。
登校することはできるが、クラリッサやディーノに風邪をうつすわけにはいかないだろう。
とりあえず水を飲もうと体を起こすと、窓辺に何か置いてあるのに気付く
近付いてみると、それは小さな瓶だった。
濃い青に金の線が入った高価そうな瓶の中には、錠剤が詰まっている。
瓶の隣に置かれた紙には『風邪薬です』と書いてあった。
「エド、よね。たぶん」
猫がどうやって文字を書いたのかわからないが、どうせならペンを持とうと四苦八苦する姿を見たかった。
さぞかし可愛いに違いない。
ニーナは微笑むと、錠剤を口に放り込んだ。
ゆっくり休んだのと風邪薬が効いたらしく、その日の夜にはすっかり元気になった。
一日家で横になるなんて、何年ぶりだろう。
アイーダの作るはちみつミルクもおいしかったし、たまにはこんな日も良いのかもしれない。
エドにお礼を伝えたかったが、その夜白猫はやってこなかった。
元々毎日来るわけではないから、問題ないとは思う。
だが、もしもエドに風邪がうつっていたとしたら、どうしよう。
エドの方こそ、看病してくれる人はいるのだろうか。
いや、猫かもしれない。
それはそれで何とも可愛らしい構図だ。
人間臭い上に優しい神の使いを思い浮かべ、ニーナは笑った。
「大丈夫ですか、ニーナさん。風邪だと聞きましたが」
次の日に登校すると、沢山の生徒に囲まれてしまった。
ほぼ男子生徒で構成された人の輪の中で、ニーナはどうにか笑顔を浮かべた。
「だ、大丈夫です。ちょっと疲れが出ただけで」
当たり障りなく流して立ち去ろうとすると、生徒の一人が首を振る。
「ニーナさん、庇わなくても良いんです。クラリッサ様に水をかけられたせいで、風邪を引いたんですよね」
この言葉に、数人の生徒が自分も見たと同調する。
どうやら先日のバケツ水の件は、クラリッサの嫌がらせということになっているらしい。
ディーノはいなかったが、せめてそれだけでも上手くいって良かった。
危うく濡れ損である。
さて、これだけではまだ不十分だ。
「それは誤解です。あれは、手が滑ってしまっただけで、クラリッサ様は悪くありません」
ヒロインらしくクラリッサは悪くないとアピールしておく。
何やら男子生徒が感銘を受けているようなので、多分この対応で良いのだろう。
まあ、誰が見ても正面から水をぶっかけていたし、風邪を引いた原因も明らかだ。
ヒロインというものは、おかしなフィルターを通して世の中を見ているか、わかっていてあえて受けの良い態度をとっているのではないだろうか。
あるいは、単に被虐趣味があるのかもしれない。
世のヒロインに疑問を持ちつつ、ヒロインらしく微笑みながらニーナはその場を後にした。
「……疲れたわ」
思ってもいないことを、日頃使わない笑顔と共に言うというのは、大変に疲労する。
人のいない方へと歩いたニーナは、畑の前に到着した。
何となくしゃがんで草むしりを始めると、心が落ち着く気がする。
中高年が土いじりをし始めるのは、こういうことなのかもしれない。
ついに草むしりにも癒しを感じ始めた自分に、ちょっと危機感を感じてしまう。
「あれ、ニーナ。風邪を引いたって聞いたけど、大丈夫なの?」
青藍の髪の美少年がいつの間にか隣に立っていた。
「ディーノ様、こんにちは。良く効くお薬をもらったので、もう大丈夫です」
「良く効く薬?」
「はい。エドがくれたんです」
「……エドが?」
隣にしゃがみこんで草むしりを始めたディーノが手を止める。
「濃い青に金の線が入った瓶に入っていました。さすが神の使いの薬は綺麗な瓶だし、効きますね」
「濃い青に、金の線。……へえ、なるほどね」
何かに納得した様子のディーノは、笑顔で草むしりを続ける。
「ディーノ様、どうかしましたか?」
「いや? ……神の使いは、ニーナが大切なんだなと思ってさ」
「確かにエドは優しい猫ですけど、ようやく見つけた雇われヒロインだからですよ」
「そうだね。そういうことにしておこうか」
口元を綻ばせたディーノはそう言って、草むしりを続けた。
「ニーナ、最近可愛くなったわね」
アイーダのまさかの言葉に、思わず眉間に皺が寄る。
まさか、実母にまでヒロイン補正が効いてしまうとは。
神の力が恐ろしいと思う反面、ただの親馬鹿かもしれないので、何とも言えない。
どちらにしても、会話の弾むテーマではない。
「そ、そうかな……」
曖昧な返事と表情でやり過ごそうとすると、アイーダがため息をつく。
「そうよ。元々可愛いけれど、最近は何というか……女の子らしくなったわね」
「ええ……」
元々可愛いと言うのは、親馬鹿部分だろう。
そして、ヒロイン補正で女の子らしさが増強されているのか。
では、拭き掃除も用務員ではなく、綺麗好きの女子的な感じで見えているのかもしれない。
神の力フィルターは、本当に恐ろしい。
「だから、好きな人でも出来たのかな、と思ったんだけど?」
言葉の意味を理解できず、ニーナは暫し固まった。
「好きな、ひとぉ?」
「そんな露骨に嫌そうな顔をしないの。……何だ。お母さん、ちょっと楽しみにしてたのに」
「楽しみって?」
「ニーナが一緒にいたいと思う人を連れてきてくれたら嬉しいな、って」
アイーダの笑顔が眩しすぎて直視できない。
ごめんなさい。
娘はヒロイン補正で女子力が上がっているだけです。
謝りたくなるのをぐっとこらえると、何とか笑顔を作る。
「そんな人がいれば良いけど、出会いもないわよ」
「それは残念ねえ。……そんな人がいれば、お母さんも安心なんだけど」
それは、よくある母娘の会話なのかもしれない。
でも、ニーナには色恋の話には聞こえなかった。
自分以外の誰かがニーナのそばにいてくれれば安心だ、と。
自分がいなくなっても安心だ、と。
そう、聞こえた。
知らず、目に涙が浮かんでくる。
「疲れたから、もう寝るね。おやすみなさい」
慌てて立ち上がると自室へと駆け込む。
「……今日はエドが来なくて良かった」
ニーナは溢れる涙を拭うと、ベッドに潜り込んだ。
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