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16 エドと契約の穴
アイーダが、死んだ。
その日は朝から顔色が良くて、少し調子が良いのだと笑っていたのを覚えている。
だが、ニーナが帰宅すると、アイーダはベッドの横に倒れていた。
夜には段々と呼吸が弱くなり、ついには息を引き取った。
「ニーナ、幸せになってね」
アイーダの最期の言葉は、掠れて聞き取りづらかった。
ニーナが泣きじゃくっていたせいもあるかもしれない。
翌日からは、忙しかった。
中世ヨーロッパ風の世界だったので土葬なのかと思っていたが、意外にもアイーダは火葬となった。
立派な墓を持つ家でもない限りは共同の墓地に埋葬されるのが一般的で、衛生面と物理的な意味もあって火葬が多いらしい。
墓に納められるまで、あっという間で、まるで他人事のようだった。
埋葬の後は、家を掃除した。
草をむしり、床を磨き、家中を拭いて回った。
何かをしていないと落ち着かなかった。
「……お茶でも、飲もうかしら」
無心で掃除をし続け、気が付いたら夜だ。
昨夜から何も食べていないが、空腹を感じない。
ただ、のどは乾くので、お湯を沸かすと薄い紅茶を淹れた。
こうして温かい紅茶を飲んでいると、この数日のことが嘘のようだ。
ニーナはぼんやりとアイーダの部屋を見つめる。
今にもアイーダがその扉から出てくるような気がした。
……そんなはずはないと、わかっているのに。
「明日は、さすがに学園に行かないといけないし。もう、寝よう」
おやすみなさいを言う相手もいない。
何だか、心の底に穴が開いて、感情がすべて零れ落ちているようだった。
「……こんばんは」
自室の扉を開くと、窓辺に白猫が佇んでいた。
美しい毛並みが月の光を浴びて輝いている。
綺麗だな、とニーナは思った。
「学園を休んでごめんなさい。明日から行くから、大丈夫よ」
契約に毎日学園に通うとは書かれていないが、ヒロインを全うするには学園に行かなければ始まらない。
「それは別に構いません。……お母様のこと、聞きました」
「そう」
エドが知っていても、それほど不思議ではなかった。
学園を休んでいるのはディーノから伝えられたのかもしれないし、神からの情報かもしれない。
「……大丈夫ですか?」
「元々、余命はひと月と言われていたから、覚悟はしていたの。契約のおかげで、だいぶ長く生きられたし、苦痛も少なかったと思う。ありがとう」
「俺の力じゃないです」
「うん。でも、エドもありがとう」
病気を治すことはできなくても、契約をした意味は十分にあっただろう。
「……本当に大丈夫ですか?」
恐る恐る窺うようなエドに、ニーナはうなずく。
「大丈夫、ちゃんとヒロインは続けるわ。ざまぁされた後の報酬も必要だし。何かしていないと……考えちゃうから」
「そうではなく。ニーナは大丈夫ですか」
「……何が?」
「お母様が、いなくなって」
エドは言いにくそうに、尻尾を垂らしている。
「大丈夫よ。ずっと、こうなるってわかってたから。もう、子供じゃないから。働くことだってできるから」
そう言って笑おうとしたのに、いつの間にか涙がこぼれている。
うつむいて涙を拭うと、袖の色がじわりと変わっていった。
「ニーナ」
エドの声が高い位置から聞こえる。
そう思った次の瞬間、ニーナは誰かの腕の中に収まっている。
見上げてみれば、白銀の髪に青と金の瞳の美少年がそこにいた。
「……エド?」
ニーナをじっと見つめる瞳は、優しくて、どこか悲しそうだ。
「今日は特別です。今の俺は神の使いではなく、ただのエドモンドです。だから、愚痴でも何でもどうぞ」
「……何それ」
笑おうとしたはずなのに、また涙がこぼれる。
それと共に、どこからともなく悲しい気持ちが溢れてきた。
「……お母さん、いなくなっちゃった。ひとりになっちゃった」
その言葉が栓だったかのように、とめどなく涙が溢れてくる。
エドモンドはニーナをぎゅっと抱きしめると、優しく頭を撫で続けた。
ひと泣きすると、少し落ち着いてきた。
そうすると、現状がおかしいとようやく気付く。
何で、エドモンドに抱きしめられた上、頭を撫で続けられているのだろう。
泣いているニーナを慰めてくれたのだろうから、親切心なのはわかる。
だが、美少年の腕の中というのは、どうにも落ち着かない。
「……も、もう良いわ。離して」
「せっかくなので、しばらくこうしていたいのですが」
「せっかくって……」
どういうことだろう。
もうニーナは泣いていないのだから、ボランティアもここまでで十分だと思うのだが。
「俺、ニーナに撫でられるのが好きみたいです」
「え? ……ああ、猫姿のことね」
では、この間何だか不満気だったのは、やはり撫でられたかったからなのか。
元は人間とはいえ、猫姿でいると猫の気持ちに傾いていくのかもしれない。
「でも、ニーナを撫でる方がもっと好きみたいです」
「……ええ?」
声を上げるニーナに構わず、その頭を撫でている。
「どう考えても、エドの毛並みの方が良いと思うんだけど。自分で自分を撫でられないのはつらいわね」
あの至福の毛並みを堪能できないなんて、不憫すぎる。
ニーナの髪の毛ごときでは足しにならないが、それでも少しは慰めになるのかもしれない。
「そういうことではないのですが……まあ、良いです」
そう言うと、エドモンドは腕を緩めてニーナを開放する。
自由になったニーナはエドから離れるとベッドに腰かける。
自分の部屋に眩い美少年がいるのは不思議だったが、猫のエドだと思うと緊張もなかった。
「モチベーションは下がるけど、ちゃんとヒロインは演じるから心配しないで良いわよ。もう、ざまぁされてどんなことになっても、お母さんに迷惑はかからないから安心だし。無事に自由になれるようなら、貰った報酬でこの街を離れようと思うわ」
もしかしたら重い刑罰を科せられるのかもしれないが、もうどうでも良い。
それに、この街のこの家で一人で暮らしていくのは、つらすぎた。
「……それは、駄目です」
ぽつりとエドがこぼした言葉に、ニーナは首を傾げた。
「駄目って、何が? ヒロインをやれと言ったのは、エドよ。健康になりたいんでしょう? 私がどうなっても構わないじゃない」
「健康にはなりたいですね。今まで周囲に迷惑をかけてきましたから」
「じゃあ、良いじゃないの」
「でも、ニーナが不幸になるのなら、いりません」
言っている内容が理解できず、ニーナは眉を顰める。
「……何それ。同情?」
「違います」
「私がざまぁされるのを、邪魔するつもり?」
「しません。……というか、したくても、できません。神の力が及ぶ範囲は、どう足掻いても変えられませんから」
なら、わざわざ否定する意味がわからない。
「だったら、放っておいてよ」
「嫌です」
「何で?」
まるで駄々っ子のような言い分に、ニーナも呆れてしまう。
すると、エドはベッドに座るニーナの所まで来ると、跪いた。
予想外の行動にニーナが目を丸くしていると、同じ高さになった青と金の瞳がまっすぐに見つめてくる。
「契約は変えられません。でも、穴を突けば何とかなるかもしれない。……もちろん、賭けですが」
「穴?」
「俺が持ちかけた契約ですが、ニーナが不幸になるのは嫌です。だから……俺を、信じてください」
言っている内容はよくわからなかったが、真摯な眼差しに圧倒されてしまう。
今までエドがニーナを害するような行動を取ったことはない。
それどころか、助けてくれたのだから、信頼に値するだろう。
「……わかったわ。信じる」
ニーナがうなずくと、エドは眩い笑顔を浮かべた。
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