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9 バケツの水は計画的に
「最近、風邪が流行っているわね」
バイト終わりに、同僚がそう言ってため息をつく。
「バイトを休む子も多いし。残念がっていたわよ」
「ああ、確かに休むとお給金が痛いわね」
「違うわよ、もう。最近、ニーナがバイトの数を減らしているから、ニーナが来る日は争奪戦なのよ?」
「ええ……」
露骨に嫌そうな声が出てしまったが、仕方ない。
「バイトが一緒でも、何もないのに」
「そこは、ロマンでしょ。ニーナを物陰から見つめているから、正直仕事の邪魔だけどね」
「物陰から?」
そういえば、今日は以前のようにしつこく話しかけられたり、手を握られたりしていない。
もしかして、エドが上手く取り計らってくれたのかもしれない。
「エドに、お礼を言わなきゃ」
「また猫? 本当に好きねえ」
呆れる同僚に挨拶すると、ニーナは家路を急いだ。
「風邪が流行っているらしいわよ。ニーナは大丈夫?」
今日の夕食はアイーダが作ったものだ。
ニーナの好きな人参のスープは、アイーダが作るとより美味しく感じる。
最近では昼間横にならなくても平気な日が多くなり、病気が治ったのではないかと錯覚しそうなほどだった。
「そうみたいね。私よりも、お母さんこそ気を付けてね」
「はいはい。ニーナは心配性ねえ」
頭を撫でると、アイーダはそのまま食器を洗い始める。
こんな普通の日々が、嬉しくて仕方がない。
ニーナは笑顔で自室に向かった。
どうやら今日はエドの訪問はないらしい。
「せっかくお礼を言おうと思ったんだけど。今度にしよう」
何となくのどが痛い気もするし、こういう時は早めに寝るに限る。
毛布をかぶってしまえば、疲労がニーナを夢の世界に誘った。
「あら! 手が滑ったわ」
クラリッサの楽しそうな声と共に、ニーナは頭から水をかぶった。
バケツを持ったクラリッサが見えた時点でそんな予感はしていたが、まさか真正面から水をかけてくるとは思わなかった。
もう少しうっかり感を出してもらわないと、大人しく水をかぶるニーナの方もおかしなことになってくるではないか。
ただでさえ、ニーナ、クラリッサ、ディーノの滑稽芝居を周囲は優しく見守っているのだから、善処してほしい。
――悪役令嬢が事故でヒロインに水をかけてしまい、メインに見つかって悪役令嬢が誤解され怒られる。
たぶん、そんな感じの想定なのだろう。
さっきからクラリッサが辺りを見回してディーノを探しているから、間違いなさそうだ。
やりたいことはわかるし、協力はする。
だが、せめてディーノが近くにいる時にしてくれないだろうか。
ずぶ濡れで待つのはつらいのだが。
「……あら? ちょっと、待っていて」
いよいよディーノ不在が心配になったらしいクラリッサが、バケツを置いて立ち去っていく。
きっと、彼を探しに行くのだろう。
「……これ、待ってないといけないのかしら」
水自体はそれほど冷たくないが、このままでいればさすがに体が冷えてくる。
それでも一応ヒロインとしてバケツ片手に待機してみるが、待てど暮らせどクラリッサは戻らない。
滑稽芝居観覧者に近付いて聞いてみると、ディーノは今日はお休みだという。
ちゃんと、調べてからにしてほしい。
クラリッサはマメではあるが、基本詰めが甘いのだ。
「あの子、悪役令嬢と言うより、ドジっ子ヒロインなんじゃないの?」
思わず愚痴がこぼれるが、言っても仕方がない。
ニーナはため息をつくと、バケツをしまって帰ることにした。
「……寒い」
ニーナは自室に入ると、身震いをした。
あれから体を拭いて着替えたが手遅れだったらしく、寒気がしてきた。
アイーダに風邪をうつすといけないので、早々に自室に戻り、ニーナの部屋には入らないように伝えた。
後はもう、眠るしかない。
ベッドに向かおうとすると、窓辺から聞き慣れた声が届いた。
「こんばんは」
今日も白猫の毛並みは滑らかで美しい。
だが、撫でる気力は既になかった。
「いらっしゃい、エド。どうしたの?」
「進捗確認に来ました」
神の使いを無下にもできないし、お礼も伝えなければいけない。
ニーナは手にしていた毛布を置いて、ベッドに腰かけた。
「エド、学園以外でヒロイン補正がなくなるようにしてくれたの?」
「いえ。なくすことはできなかったのですが、学園外では補正は効いても接触はできないようにしてもらいました。あれから、どうですか?」
「うん。しつこく話しかけられたり、手を握られなくなったわ。物陰から見ているらしいけど」
「それなら、良かったです」
白猫の尻尾が楽し気に揺れている。
魅力的ではあるが、今日は早く報告をして眠りたいので、尻尾のことは諦める。
「クラリッサ様は相変わらず詰めが甘いけど、どうにかヒロインらしく対応しているつもりよ」
「……ちょっと待ってください、ニーナ」
震える体を抑えるように腕をさすりながら話していると、白猫が鼻筋に皺を寄せている。
「体調が悪いんですか? 震えているじゃありませんか」
「今日、頭から水をかけられて、そのままディーノ様を待っていたから。クラリッサ様も、ディーノ様を確認してからかけてくれれば良かったんだけどね」
「体調が悪いなら、無理しないでください。早く、ベッドに入った方が良いです」
エドはそう言って、前足でベッドを指し示す。
本当ならあの足を握って、撫でて、肉球の弾力を頬で感じたい。
だが、そんな元気がないのだから、やはり体調が悪いのだろう。
「誰か、看病できないんですか?」
毛布を広げていると、エドがそばに来て見上げる。
金と青のオッドアイは、吸い込まれそうなほど美しい。
「お母さんにうつすといけないから、部屋には入らないようにお願いしたの。私は頑丈だから、一晩眠れば大丈夫よ」
ニーナは笑ったつもりだったが、震えすぎて表情も引きつってしまう。
これはさすがに駄目だと、急いでベッドに入ると毛布をかぶった。
「……俺は、ニーナに何もできないですね」
見れば、白猫は頭を垂れて落ち込んでいるようだった。
神の使いの猫に何かをさせるつもりなんてないのだから、気にすることなどないのに。
「エドは優しいわね。……それじゃ、私を温めてくれる?」
「――え?」
エドの動きが止まる。
猫の瞳はそもそも大きいので、目を瞠ると零れ落ちそうだった。
「寒いのよ。お願い」
そう言って毛布を持ち上げると、暫し逡巡した白猫は大きなため息をついた。
「今だけ、ですよ」
そう言って毛布の中に滑り込んでくる。
ふわふわモフモフの毛並みが心地良く、何よりも温かい。
ニーナは暖を取ろうとエドを抱きしめて胸元に引き寄せ、ふと気付く。
「でも、これじゃエドに風邪がうつるかもしれない。やっぱり、やめておくわ」
「大丈夫です。大丈夫なので……その手は、離してもらえますか」
「手?」
言われた通り離すと、エドはもぞもぞと動いてニーナの体から少しだけ距離を取った。
「これで、勘弁してください」
「ああ、そうね。あんまり近いと私に潰されるかもしれないものね。ありがとう、十分温かいわ」
「いえ、そうではなく。……俺にだって限界というものが」
「限界?」
「いえ、何でもありません。もう寝た方が良いですよ、ニーナ」
よくわからなかったが、エドのおかげで寒気も少し落ち着いてきたし、眠い。
明日もヒロインとして頑張らなければいけないのだから、しっかりと休もう。
「うん、ありがとう。おやすみなさい、エド」
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