人面魚へのお礼

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人面魚へのお礼

中学校二年生の夏。受験の話が出始めた頃で、同級生の中にはすでに受験勉強に向けてスタートを切っていました。私立ではなく公立を目指せと言われていた少年も、そろそろ塾に通わなきゃいけないだろうと、両親とどこの塾が良いか選んでいるところだったのです。 「できれば地元の公立が助かるけど、市外へ行きたければ協力できるわよ」 「友達も自転車で15分の公立だし、俺も同じでいいよ。先生もそこがいいんじゃないかって言ってるしさ」 将来を見据えてと言われても、その将来がまだぼんやりとしか分からない。地元の公立に自分が届く学力であるのだから、そこで良いかというお気楽な気分で決めていました。 「それじゃあ、私とは違う学校になるわね。一年とはいえ、同じ高校に弟と一緒だなんて気まずいから助かるわ」 高校二年生の姉はそろそろ私立大学への受験勉強を始めていました。少年も姉と同じ意見だったので、笑ってうなづきました。 「別に仲が悪いわけじゃないけど、友達にあれこれ言われるからいやだな」 「小中学生の時は気まずかったものね」 母と姉と少年が三人で笑っていると、玄関から大声があがります。 「ただいま~。あつー。今日も暑いなぁ」 電車は満員電車、室内は涼しくても、路上はアスファルトで熱気があたり、ワイシャツが汗でくたくたになっていました。 「うっわ。先にお風呂に入ったら」 そうするかなと姉にニコニコ笑い、少年にもただいまと声をかけました。 「それじゃあ、先にお風呂に入るのね」 「ああ、だけど、風呂に入る前に言っておこう。父さん、夏休み取れたから家族で旅行しよう」 「え?本当に?」 「休みとれないって言ってなかった?」 姉と少年が代わる代わる話す前でにんまりと笑います。すでにネットで有名なホテルの予約を取ったが大丈夫かという確認でした。 「行くなら、そこがいいって言っていただろう?目の前は海だし、食事もうまい、温泉もあるらしいぞ」 三人とも異存はないという答えに満足そうにうなづいた父親は、ハミングしながら浴室に向かいます。家族での旅行は滅多にないことなので、嬉しそうな表情を浮かべていました。 家族旅行当日は天気に恵まれ、海水浴場でも人は多いものの家族楽しいひと時を過ごします。一泊二日という短い期間の中で、日本有数のホテルは女性に向けてのサービスも満載でした。温泉だけでなくエステも楽しむことができたのです。父親もマッサージチェアに座り日ごろの疲れを取っていました。 二日目、朝食バイキングを終えた姉は、深刻そうな顔で少年を呼び寄せました。 「何?どうしたの?腹壊した?」 「ちっがうわよ。指輪。見なかった?」 姉が自分の小指をさして、どこかになくしてしまったことを告げました。 「俺、知らねえ。どこかで落としたんじゃ……あ、もしかして」 少年の頭に海が浮かびました。ビーチで軽いビーチバレーをしたり、泳いだりアクティブに活動していました。 「そう、そのまさかなの。これから、もう一度、海に行くでしょう?その時に一緒に探してくれない?」 「勘弁してよ。もうあきらめろよ」 げんなりしている少年に手を合わせて拝み倒します。見つかるかどうかは分からないけど、自分も一緒に探すと約束をして二度目の海に来ました。 少年は探検するように見せかけて、姉が遊んでいたあたりの砂浜や波打ち際をみてまわります。ビーチパラソルをさしていたあたりで見つからなかったので、もう無理だと思い込んでいました。 家族から離れて、人気のない岩場でため息をつきます。ごつごつした岩に寄りかかると、見つからないと素直に言うしかないと気持ちが暗くなりました。 「せっかく、旅行に来たのに。これはねえよ。どこ行ったのかね。姉ちゃんの指輪」 少年の脇腹を何かが通り過ぎました。軽く何かがあたったので、水の中で動くものに視線を走らせます。大きな丸い魚でした。丸っこくはありますが、動きは俊敏ですいすいと泳いでいきます。その魚が少年の方に近寄ってきました。 「お探し物はこれですか?」 「え?誰?」 少年のそばには人がいません。きょろきょろとしていると、ざぱんと音がして何かが顔を出しました。 「これを探してるんですか?」 右に左に顔を向けてから、下を見てぎょっとしました。小さな指輪をくわえた魚が少年の方を見つめていたからです。ただの魚でも驚きますが、少年は魚の顔に言葉を失います。 人面魚という言葉を飲み込んで、震える手で指輪を受け取りました。姉の指輪をよく見ていなかったものの、赤い宝石が埋め込まれていることと金色のリングであること、リングの内側には姉の名前がローマ字で刻印されていると聞いていたので確認しました。 「うん。そうだよ。ありがとう」 海の中では二本の足が震えています。声が震えないようにするので精一杯でした。 「気に入っていたのですけど。持ち主がいるならお返しませんとね。失礼いたしました」 魚の頭部に人間の顔があるので奇妙なことこの上ありませんが、声が優しく言葉遣いが丁寧だったので少年は思わず呼び止めました。 「あの、助かったよ。これ、姉のなんだ。見つかったって聞いたらすっごく喜ぶ。ありがとう、あのさ、お礼するよ。何か欲しいものある?」 踵を返して立ち去ろうとし人面魚が振り返り、ほほを赤く染めました。人面魚が何を喜ぶかは分かりませんでしたが、何かお返しをしたいと思ったのです。 「それでは、あの、つけまつげが欲しいです。私、まつ毛が少ないので、ボリュームが欲しいんですよ」 「あ、うん。ちょっと待ってて、姉が持っていないか聞いてくる」 少年には、この状況を正確に把握する能力がありませんでした。震える足を𠮟咤して、砂浜まで行くとまずは姉に指輪が見つかったことを知らせ、つけまつげがないか聞いてみました。 「え?いいよ。余分に持ってるからあげるね。女の人が見つけてくれたんだね。私、挨拶しに行こうかな」 「あ、いいよ。姉ちゃん、仕度に時間かかるだろ?出発が遅れると母さんが機嫌悪くなるよ」 「それもそうね。ありがとうってお礼いっておいて」 姉から海やプールでもつけられるつけまつげを受け取り、転びそうになりながら先ほどの岩場に向かいました。人面魚の姿はなく小声で呼んでも姿を現しません。困った少年は岩場に置いて、丁寧にお礼を言うとその場を離れました。 人面魚の遭遇に驚いていた少年は、車の後部座席でぐっすり眠ります。姉は横で嬉しそうに小指の指輪を見つめていました。
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