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爽やかで嫌味の無い匂い。新たな季節の萌芽を緩やかなシャボン玉で包んだような、独特で心落ち着く香り。
よく覚えている。
私が恋した、あの香りだ。
もちろん、彼女とは別の娘のはずなのだが、私は彼女が待っていてくれたあの頃を思い出して、その場で少し佇んでいた。
やがて我々は、また同じ道を、以前と同じように歩いた。
彼女は体の衰えた私に合わせ、ゆっくりと歩く。
私は特に話さない。
彼女も、特に話さなかった。
でもそれだけで、私はまた、嬉しかった。
もちろん、あの子はもういない。
だから、私がまた散歩を続ける意味なんて、もう無い気もする。
どれだけ彼女があの子に似ていようと、私が再び散歩を楽しみにするほどには、私の心にも体にも、もう余力は無いかもしれなかった。
しかし翌朝から、以前と全く同じ時間に、また私を散歩へ促す声が聞こえる。
散歩へ行くぞ、という声が弾んでいる。
私の首へリードを掛ける手が、以前にも増して軽やかだ。
もしかしたら、私の体はもう長くは動かないのかもしれない。それでも、私を育て遊んでくれたこの人のために、かろうじて体が動く間くらいは、せめて散歩の口実になってあげたいと思う。
私の恋したあの子はもういないけど、今日も公園の角を曲がると、きっと彼女達は待っている。
私の歩幅に合わせて、できるだけゆっくり歩くのだろう。
恋をしていたのは、私だけではなかったのだから。
〈了〉
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