2:宮瀬慎吾

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 それからというもの、慎吾は山下奈緒子のことが気になってしょうがなかった。国語の授業では淀みなく紡がれる春風のような音読にウットリとし、算数の授業では黒板に書かれていく均整のとれた数式に嘆息し、そのほかの授業でも、慎吾はずっと山下奈緒子に夢中だった。  慎吾ばかりでなく、平等主義の町山先生ですら、図工の時間に山下奈緒子が提出した『犬たち』という、今にも吠え出しそうなほど精緻(せいち)に描かれた五匹の犬の絵を見たときには、思わず「すごい……」と声を漏らしていたし、とにかく山下奈緒子が転校してきてからひと月と経たないうちに、彼女はクラスメイトのほとんどを虜にしていた。  例外的に、なにを考えているのか分からない直人、クラス一の変わり者で、《ワチコ》というノリだけでつけられたあだ名を持つ高島佐智子(たかしまさちこ)、教科書が友だちで勉強が趣味だと顔に書いてある純平、それに誰とでも対等な関係を崩さない学級委員の紀子やなんかは、山下奈緒子という存在を特別視していないようだったが、それも本当に少数の例外だった。  慎吾は、山下奈緒子のとなりの席という幸運を、どんな顔なのかも知らない神様に心の底から感謝していた。山下奈緒子から漂う甘やかな香りに触れるだけで胸が早鐘を打って、暑くもないのに額に玉のような汗をかき、そのたびに太一や直人にからかわれた。だが不思議なことに、そんなことはまったく気にならなかった。  すべてが順調で世界が輝いて見え、山下奈緒子の笑顔を見るたびに喜びが胸一杯に広がり、「恋だ。恋なんだ。これがぼくの初恋なんだ!」と、何度も胸の裡で叫ばすにはいられなかった。目羅博士が濡れ女のヌレヨちゃんに恋をした時に言った、「おれはきみが何者であっても、この命ある限りきみを愛す」という台詞を、もし山下奈緒子に格好良く言えたとしたら、どんなにかステキなことかと思ったりもした。  幸せだった。  ダメダメな自分のことを山下奈緒子が好きになってくれるわけがないなんてことは痛いくらいに分かってはいたが、そんなことはどうでもよかった。山下奈緒子に好かれるかどうかじゃなくて、山下奈緒子に恋をしているということだけが輝かしい事実で、山下奈緒子が優しく微笑んでくれさえすれば、ほかに何もいらなかった。
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