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31:線香花火
八月二十九日。夜。
廃病院に着いて、懐中電灯の灯りだけを頼りに207号室へ向かうと、
「だから、遅いって」
と、先に来ていた奈緒子にまた遅刻を叱られた。
「ごめん。ちょっとお父さんとしゃべってたから」
「なにをしゃべるわけ? 将来のこととか?」
「そんなの、まだ早いよ」
「早くないでしょ。来年からもう中学生だよ。ちゃんと考えないと」
「そ、それよりさ、今日はなにするの?」
「分かった。こっち」
大きなボストンバッグを肩に提げた奈緒子が、慎吾にひとつ手招きをしてそのまま屋上へと向かった。
「ここでなにするの?」
「いいからいいから」
奈緒子がボストンバッグを下ろし、中から取り出したペットボトルの水をほったらかしのバケツへ注いだ。その意味が分からずに眺めていると、次に奈緒子は線香花火を取りだした。
「ごめん、わたしあんまりお金がなくて、これだけしか買えなかったんだ」
「これやるために、今日は集まったの?」
「うん。だってやりたかったんでしょ、花火」
「そうだけど……」
「いいからいいから」
しゃがみ込んだ慎吾は、奈緒子がふたつの線香花火に火を点ける様子を見つめた。何度も火が消え、それでも諦めずにライターをカチカチと鳴らす奈緒子が、少し可笑しい。
「ちょっと、見てないで手伝ってよ」
「う、うん」
両手で線香花火を覆うと、ようやく儚げな火花が四方に散りはじめた。
ひとつを手渡され、火花に見惚れる奈緒子を目の端に意識しながらボウッと眺めているうち、ふと夏の終わりを感じた。
「……やっぱり線香花火って、さみしい気分になるね」
火花にほの明るく照らされながらつぶやく奈緒子を、マトモに見ることができない。
「線香花火って最後にやるイメージがあるもん。これだけでやってもね」
「なんか、わたしの計画に文句を言ってるみたいなんだけど」
「そ、そんなことないよ。ぜんぜん楽しいよ」
「そうだよ、楽しまなきゃ。きっとこれが最後の花火なんだから」
「最後のって……今年は、でしょ?」
「今年最後の花火、か……あ、落ちちゃった」
「あ、ぼくも」
ふたたび火の点いた線香花火をもらい、散りゆく火花を眺める。
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