2:宮瀬慎吾

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 そして山下奈緒子と話すことができくなってあっという間に一ヶ月が経ち、気がつけばもう七月になっていた。  夏が、ついに始まる。  慎吾にとって《夏》という言葉は地獄の代名詞で、こんな暑い季節はタチの悪いジョークであってほしい、と毎年のように思わずにはいられなかった。湿気と直射日光で埋め尽くされた世界なんて、ウソに決まっている。  加えて今は、カナヅチの慎吾にとってなによりも辛いプールの時間だった。  バタ足、バタ足、バタ足………  今年の夏の終わりまでに、あと何千回のバタ足をすればいいのだろう。もういい加減、バタ足のせいでプールが運動場がわにずれていたら面白いのにな、と、くだらない妄想にふけりながら慎吾はプールサイドのベンチを見た。  どこからか持ってきた木の枝であそぶ次郎の横で、難しそうな分厚い文庫本に目を落とす山下奈緒子は、日陰の中にあってすらその美しさを十二分に輝かせている。  唐突にむずがゆい恍惚(こうこつ)を股間に感じた慎吾は、底知れぬ後ろめたさに困惑した。 「はい、プールから上がって!」  最悪なタイミングで、町山先生の声がプールに響き渡る。  いまプールから上がったら、どれだけバカにされるか分かったもんじゃない。ただでさえ《チャー》なんてひどいあだ名をつけられてるっていうのに、もっとひどいことになったら、瀬戸正次(せとまさつぐ)——セトくんのように学校へ来られなくなってしまうかもしれない。  絶望的な状況に動けないでいると、柔らかい手に後ろからそっと肩を掴まれ、おどろいて振り向くと紀子が心配そうに見つめていた。 「大丈夫? 気分とか悪いの?」 「あ、暑いからさ、外に出るのイヤだなあとか思って……」  しどろもどろで言い訳する慎吾をなおも心配そうに見つめる紀子は、そこまで近づかなくてもいいじゃないかというくらいの距離にいた。  これじゃあ、いつまでたっても上がれやしないし、おさまるものもおさまらない。 「ほ、本当に大丈夫だから。先に行ってよ」 「そう、分かった」  つぎの瞬間、プールを上がる紀子のお尻に低い鼻先をかすめられ、おモチのような感触に言いようのない興奮を覚えた慎吾は口元が緩んだ。  夏も意外と悪くないと思いながらふとプールサイドを見ると、意味ありげに微笑む山下奈緒子と視線がぶつかった。咄嗟に逸らした目をすぐにまた戻すと、山下奈緒子は、なにごともなかったかのようにふたたび文庫本に目を落としていた。  ニヤけた顔を、山下奈緒子に見られてしまった。  ホントにマジで最悪の最悪。  気落ちしながら股間をまさぐると、バカ正直に萎れていた。  プールを上がり、ため息を吐いて列の後ろに座ると、 「おいデブ、ため息すると幸せが逃げてくぜ」  と、ワチコが右のふくらはぎにある小さな古傷を掻きながら、肩を小突いてきた。なにかというと人をバカにしてくるワチコが心の底から苦手だった。慎吾に限らず、大半の男子はワチコを嫌っていた。ふくらはぎの傷だってそれが原因だったっていうのに、まったく反省の色なしだ。 「ほ、ほっといてよ」 「ヒヒヒ、そうやって残り少ない幸せをどんどん失くせばいいよ」 「勝手に残り少ないって決めないでよ」  やっぱり苦手だと思いながら力一杯に(にら)みつけると、どこ吹く風で受け流したワチコは、もう興味を失ったと言わんばかりに町山先生へと視線を戻した。空回りの慎吾もひとつ舌打ちをして、おなじく町山先生へと視線を戻す。 「来週から水泳のテストを始めるから覚悟しといてね」  町山先生の死刑宣告に騒ぐクラスメイトの中で、泳ぎが得意な太一や学は大きなガッツポーズをとっていた。自分が輝けるシチュエーションを知っているのだ。  慎吾は、まだ自分が輝けるシチュエーションを見つけられずにいる。
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