3:血塗れナース

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「おじゃましまーす……」  山下奈緒子になのか、はたまた血塗れナースに言ったのかは自分でも分からなかったが、とにかく勝手に許可を得て病院の中に足を踏み入れると、すぐに《タスケテ》という壁の落書きが目に飛び込んできた。ほかにも色んな落書きがあたり一面を埋め尽くしている。ただのイタズラだと分かっていながらも、背筋をヒヤリとしたものに撫でられた。  意を決した慎吾は、割れた窓ガラスや天井から剥がれ落ちた石膏ボードを踏みしめながら、奥へ奥へと進んだ。一向に山下奈緒子は見つからなかったが、廊下を進むたびに視界の(すみ)にちらつく闇の吹きだまりから飛び出してきた血塗れナースにメッタ刺しにされるんじゃないかという恐怖に怯えて、足を止めることができなかった。  震える足に大丈夫だと言い聞かせながら進むと、横倒しになった車イスのタイヤが、キィーキィーと不気味な音を立てて回っているのが見えた。怖い想像を頭から振り払い、きっと山下奈緒子が回したのだろうと思いながらさらに先へ進む。そして足を踏み入れてしまったことを十二分に後悔する頃には、あと戻りすることすら勇気がいるほど奥へと来てしまっていた。  それなのに、まだ山下奈緒子はどこにも見当たらない。  半ベソ状態で階段を見上げた慎吾は、階上から聞こえてくる犬の鳴き声にホッと胸をなで下ろした。たぶん山下奈緒子は、二階にいる。確証もないのに確信した慎吾は、一気に階段を駆け上がった。  二階に着き、すぐに息切れしてしまう自分を恨めしく思いながら207号室から漏れ出るおぼろげな光を見て、思わず、 「良かった……」  と、慎吾はつぶやいた。  息を整え、ふたたび忍び足になって207号室を(うかが)うと、大きいのから小さいのからさまざまな五匹の犬に囲まれた山下奈緒子の後ろ姿があった。犬のエサだろう大きな紙袋をかたむけて中身を床へバラまいた山下奈緒子が、いつもの涼やかな声で「ああ、待って、サブロー」と、フライング気味にがっつく中型犬をなだめる。  もう少しよく見えるようにと一歩踏み出した慎吾の足が、転がっていた空き缶を思うさま蹴飛ばした。  終わった。  きっと山下奈緒子に見つかって、尾けまわしていたというキモチノワルイ行動がすべてバレてしまうのだ。そればかりか山下奈緒子にこのことを言いふらされ、女子には距離を置かれ、男子からはますますバカにされるにちがいない。  このまま《ヘンタイ》のレッテルを貼られるのはゴメンだったが、一階のあの闇の中を一気に駆け抜ける自分の姿を、まったく想像できなかった。  ホントにマジで最悪の最悪。 「だれ?」  意外にもあまり緊張した様子でもない山下奈緒子の声色に疑問を感じながらも、とっくに観念していた慎吾は、ゆっくりと207号室へ足を踏み入れた。  一瞬、なぜか期待に顔をほころばせている山下奈緒子と視線がぶつかり、すぐに目を逸らしてうつむきながら、 「ご、ごめん」  と、なんとか声を絞り出した慎吾は、もう本当にこれですべてが終わったんだな、と思いながら、足下に転がる季節外れのセミの亡骸(なきがら)を涙目で見つめた。 「なんだ、宮瀨くんか……」  落胆の色を含みながら、しかし突然の訪問者におどろいた風でもない山下奈緒子の声に、慎吾は安堵(あんど)と疑問を胸に抱いた。 「お、怒ってないの?」 「え、なんで?」  意味が分からないといった顔で近寄ってくる山下奈緒子の白いワンピースの裾に茶色いシミを見つけた慎吾は、山下奈緒子が二十四時間いつでも完璧な存在ではないのだという重大な事実に気づかされた。
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