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ジョギングを始めて二週間が過ぎた、ある朝のことだった。
薄曇りの空を見上げ、今日は久しぶりの雨が降るかもしれないなと考えながらいつものように国道を走っていると、
「あの、すいません」
と、かぼそい声がどこからともなく聞こえてきた。
立ち止まって辺りを見回してみたが、声の主はどこにも見当たらなかった。
首をひねってふたたび走り出そうとすると、
「ここです」
と、さっきよりも大きく、それでいて遠慮がちな女の声が聞こえた。
ふたたび辺りを見回すと、二棟のオフィスビルの隙間に女がすっぽりと収まるようにして佇んでいた。異様な光景にもかかわらず、長袖の赤いワンピースを着た女の儚げな顔立ちに、私は思わず見惚れた。
「芸術作品に興味はおありですか?」
「え、なんですって?」
「ですから、芸術作品に興味はおありですか?」
「いや、あまり興味はないかもしれないね……」
答えながら女の両胸の膨らみの頂に浮き出たものに目を奪われた私は「この女はノーブラなのか」などといやらしいことを考え、少しだけうしろめたくなった。
「そうですか、それは残念です。あなたになら、わたしの作品を分かっていただけると思ったのですが」
気だるそうに見つめてくる女に、やましい気持ちを見透かされたような気がした私は、
「えっと、なんで僕なの?」
と、取り繕って訊いた。
「ええ、うまく伝えられえないのですが、あなたにわたしと同じニオイを感じたからだと思います。ああ、ひとつ言い忘れましたが、わたしは今日この世に産まれ落ちたのです。遂に……遂にわたしはこの町に溶けることができたのです。そしてそれは、あなたのおかげなのです」
……言っている意味が全く分からない。
そもそも女が私に感じたニオイとはなんなのだろうか? さっきから女が漂わせている薔薇の香りのことでないのは明らかである。きっと私の胸の裡にもおなじ狂気が存在すると言いたいのだろう。
バカバカしい!
「本来ならば、わたしは夜の存在なのですが、産まれ落ちた興奮が冷めやらずお声をかけさせて頂いたのです。わたしはまだ完成していませんから。そのことはお詫びします」
さらに意味の分からないことを言って微笑んだ女の顔は、満面に狂気をはらみながらも、見惚れるにあまりあるほどの色香を湛えていた。
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