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6:失恋大樹とたそがれ坂
神社へと続く、長く緩やかなたそがれ坂。
慎吾は、先にある景色を隠してしまう坂道が昔から好きで、上るときはいつも「もしこの先の景色が昨日と全然ちがうものになっていたら」と、心を躍らせていた。
たそがれ坂を半分ほど上ったところにある神社の石段に感じる憂鬱を、奈緒子の存在が薄めてくれた。奈緒子は万能薬だ。いるだけで、心の傷も額のケガも忘れさせてくれる。
苔むした石段を見上げた奈緒子が、
「わたしここに来るの、初めてなんだ」
と、うれしそうに言う。
「でもさ、ホントに『失恋大樹』は大したことないよ。見たらガッカリするかも」
「べつにいいよ。ヒマつぶしなんだし。行こう」
二段飛ばしで石段を駆け上がっていく奈緒子の赤いランドセルが、右に左に揺れる。慌ててあとを追った慎吾は、先に階段の上に着いて振り向いた奈緒子の笑顔に、なぜか寄る辺なさを感じた。
「遅い」
「ハアッ、ハアッ、う、うん、ご、ハアッ、めん」
「で、どこにあるの?」
「え?」
「失恋大樹」
「ああ、ハアッ、うん、こっち」
慎吾は、奈緒子を境内の奥にある大きな杉の木まで連れて行った。
「これ」
「え、これ? なんか思ったのとちがう。普通の樹じゃん」
「だから言ったじゃん。大したことないよって」
「ふうん」
「でもこのうしろ見てよ、いっぱい名前が書いてあるから」
「うん」
樹の裏に回り、彫られたいくつもの名前を見て、
「この人たちの中で、ホントに死んじゃったりした人いるのかな?」
と、奈緒子が冷たく言った——ように慎吾には聞こえた。
「死んだ人とかはいないんじゃないかなあ。不幸になるってだけだから。でも恨みがでかければでかいほど、すごい不幸がやってくるみたいだから、ひとりくらい死んでるかもね」
「ふうん……」
気の抜けた返事をした奈緒子が、彫られた名前をひとつひとつじっくりと見ていく。
慎吾はこの樹が昔から苦手で、秘密基地があったころは、そばの生け垣に空いた穴をくぐり抜けるほうが近道なのにわざわざ遠回りをしていたほどだった。だから奈緒子と一緒になって樹の裏を見る気にはなれず、足下に転がる赤錆びた五寸釘をボウッと眺めていることしかできなかった。
「ねえ、この中にチャーの知っている人とかいない?」
「え?」
「こっち来てよ」
「う、うん」
慎吾は、奈緒子に逆らえないまま樹の裏に回って、
「無いと思うよ。こんなの誰も信じないって」
と、少しだけ抗弁した。
「いいから、ちゃんと見てよ」
奈緒子に強く命令された慎吾は、気乗りしないまま名前を上から順に見ていった。
知らない名前……知らない名前……シルベスタ・スタローン……知らない名前……×印のついた知らない名前………………瀬戸正次……………瀬戸正次!
「セトくん!」
「え、誰かいた?」
慎吾の大声に、嬉々として奈緒子が訊く。
開いた口を塞ぐことも忘れて、慎吾は唖然としていた。
知っている名前があるなんて考えもしなかったし、よりにもよってセトくんのものだなんて夢にも思わなかった。何が何やらワケが分からない。《瀬戸正次》の文字はほとんど消えかけていて、その上にある、おそらく最近書かれたのだろう名前たちと比べても、だいぶ古いのは確かだった。
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