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昔はよくとおった、セトくんの家へと続く道をワチコと連れだって歩いていると、妙な気持ちになった。
「でもやっぱり、会いに行っても大丈夫なのかな?」
不安を漏らすと、ワチコがため息を吐いて、
「ひとりなら行けない。デブが帰るなら、あたしも帰るよ」
と、心細さを吐露した。
無言のまま歩き、気づいたときにはすぐそこにセトくんの家が見える場所まで来ていた。ゆっくりとうねる灰色の雲が、一帯を重い悲しみで押さえつけているように見える。
ドアの前に立ってチャイムを見つめながら深呼吸をし、
「じゃあ、押すよ」
と、同様に深呼吸をしているワチコに言って、慎吾はゆっくりとボタンを押した。
ノドが、カラカラだった。
言いようのない不安のなか足元を横切っていくアリの行列をボウッと眺めていると、家内からスリッパの音が近づいてきて、ドアの鍵が開く音が聞こえた。さっきから色んな音がいちいち大きい。ワチコが鼻をすする音すら、鼓膜に痛いほど響いていた。
ドアから顔を出したのは、セトくんのお母さんだった。
「……慎吾君、どうしたの?」
しばらく作ったことがなかったのか、その笑みが引きつっているようにも見えた。
「あ、あの、セ……正次くんに会いに来ました」
「正次に?」
セトくんのお母さんの顔に差した陰りに、暗に拒絶を感じる。
「ぼく、聞いたんですけど。その、もうすぐ引っ越しちゃうんですか?」
「そうね……明後日には」
「だ、だから会いに来ました。友だちだから」
「そう、ありがとう。でもあの子……だれとも会いたがらないのよ」
「部屋の前まででいいんです。マサツグが会いたくないんなら、すぐに帰ります」
唐突に言ったワチコを、セトくんのお母さんが怪訝な目で見る。
「このコは、学校でセトくんと仲の良かった、高島さんって言います」
「そう……」
セトくんのお母さんに促されて中へ入った慎吾は、すぐそこの階段を見上げた。二階にある、昔はよく遊びに来ていたセトくんの部屋がとても遠くに感じ、階段がギロチン台への十三階段のように見えた。
「正次、慎吾君と高島さんが会いに来てくれてるよ」
二階へ上がり、部屋のドアを優しくノックしたセトくんのお母さんは、ふたりに目顔でドアの前まで来るよう促し、「下にいるから」とか細く言って下へ降りて行った。
「マサツグ……」
さきに口を開いたのは、ワチコだった。
ドアの向こうからは、なにも聞こえない。
「……元気でね」
ワチコの声が、少し震えているようだった。
その時、ドアの向こうから床を踏み鳴らす音がかすかに聞こえた。声は出してくれないが、たしかにセトくんはワチコの言葉を聞いてくれている。
「……ごめんな……なにも……してあげられなくて」
途切れ途切れのワチコの言葉が、胸をギュッと締めつける。
「……もう、これが最後だから、ぜんぶ言うよ。あたしさ……四月に……失恋大樹にマサツグの名前を書きに行ったんだ」
重い告白に、口を挟むことができなかった。
「……書いたの?」
不意にドア越しに聞こえた久しぶりのセトくんの声は、かつての快活な少年のそれとおなじものだとは思えないほど、悲しみにうち沈んでいた。
「……書いていないよ。書きに行ったとき、もう誰かがマサツグの名前を書いたあとだったんだ。だから……あたしは……」
涙に邪魔されたワチコがそのさきを続けることは、もうできそうもなかった。
「……ワチコは関係ないよ。だから謝らないでよ」
「うん……うん……」
すすり泣くワチコに、慎吾は直人から借りっぱなしのポケットティッシュを渡すことしかできなかった。
「……ねえ、セトくん、なにがあったの?」
「……言えないし、言いたくないから、言わない」
「う、うん。そうだよね、ごめん……」
「……」
「……げ、元気でね」
「……無理だよ、たぶん」
「うん、でも、ぼくにはそれしか言えないから」
「……分かってる……ありがとう……ふたりも……元気でね」
「……うん」
それっきり、セトくんの声は聞こえなくなった。
ドア越しに、鼻をすする音だけが聞こえている。
慎吾は、なぜだか泣けなかった。
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