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介護の世界に0から足を踏みいれた彼女・佐藤頼子(さとうよりこ)は、日々を忙しく過ごしていた。
その老人ホームでは、一人が数名を受け持つのが普通だった。
最初は手があと4本は欲しいと思った彼女だが、今ではあと2本くらいで足りると思える程度に彼女は成長していた。
だが、介護職に就いて1ヶ月。
彼女に悩みができた。
それは受け持ちのおじいさんのことだった。
そのおじいさんは、暴れたり、ご飯を食べなかったり、そういう手がかかることは一切ない。
ただ、おじいさんはあの日、彼女にこう言ったのだ。
「頼子さん、うちの孫が来ているみたいですね……やんちゃな子でしょう? 何かご迷惑をおかけしていませんか?」
ベッドに横になったまま、すこぶる穏やかな口調だった。
「……え? 田中さんのお孫さんがお見舞いに来ているんですか?」
彼女は面会の連絡があったか頭の中で確認しつつ、訊き返す。
するとおじいさん・田中さんは廊下のほうを指さした。
「あれ? さっき、ちらりとそこの扉から孫がこっちをうかがっていたので、息子夫婦が面会に来たのかと思ったのですが……」
振り返るが、廊下には誰もいない。彼女は田中さんの布団を整えながら、笑顔で告げる。
「ふふ、気のせいですよ。ここにきて長いんですよね? きっと家族に会いたくてそんな感じがしたんですよ」
気性も荒くなければ頭もはっきりしているのでこれくらい言っても田中さんは怒らない。1ヶ月のお世話でわかっていることだった。
彼は柔和に笑った。
「ボケでも始まりましたかねぇ。ほら、足が悪いせいでやれることはせいぜい窓の外を見ているくらいだから」
「気分転換に車いすで外出しますか? 押しますよ?」
「いや、いいですよ。頼子さん他の人のお世話もあるでしょう? 私はひと眠りさせてもらいますよ」
そう言って、田中さんは眼鏡をはずし、布団にもぐりこんだ。
頼子は部屋の掃除をしようと思っていたのだが、後にして受け持ちの他の介護者のところへと向かった。
それから数日、頼子は以前よりも注意して田中さんを見るようにしていた。
しかし、田中さんはいたって普通で、ご飯も残さず食べるし、ボケている様子はみじんもないし、他の介護者とも話が弾んでいた。
なりやすい鬱などの精神疾患を抱えている様子もない。
「……やっぱりホームシックだったのかな?」
出勤して早々、田中さんの部屋にお世話に向かった頼子は扉を開けようとして、その声に気づいた。
「そうか、はるばる来てくれたんだね、ありがとう、うれしいですよ」
誰かとしゃべっているようだった。
早朝からの面会予定ってあったかしら?
頼子は不思議に思いながらも扉に手をかけ開く。
「おはようございます。田中さん、調子はいかがですか?」
田中さんは眼鏡の位置を直しながら微笑んだ。
「おはよう頼子さん。調子はすこぶるいいですよ。ああ、そうだ、紹介しなきゃ、ここにいるのは……おや? もういない。なんだ頼子さんと入れ違いで出て行ってしまったのか……昔話に花を咲かそうと思ったのに、残念」
肩を落とした田中の言動に、頼子は首をかしげる。
部屋の扉は一つしかない。頼子が気づかずにすれ違って出て行ったという可能性は限りなく低いが……頼子は訊いた。
「誰か……来ていたんですか?」
すると田中さんは眼鏡をはずして穏やかに告げた。
「ああ、ちょっと昔の友人が……親友だったんですよ。疎遠になってしまったけど、私が介護施設にいるって知ってきてくれたらしい。ちょっとしか話せなかったけどうれしいです。朝早くの面会予定を入れるのは大変だったでしょう? ありがとう頼子さん」
面会予定なんて入れてない。
頭を下げられた頼子は困惑し、しばらく動けなかったが、朝食を持ってきたのを思い出して急いで配膳した。
「うーん、それはお迎え現象かもしれないね……」
「お迎え現象、ですか?」
介護歴8年の先輩に、田中さんが見た孫や友人のことを話すと先輩は渋面を浮かべた。
「簡単に言えば、死ぬ間際に見る幻覚のことかな。親しい人や会いたい人が見えるみたいなのよね。でも本人にしか見えないからこっちは何言ってんの? ってなっちゃうのよ。介護の世界ではよくあることよ」
「へー……え、じゃあ、田中さん死んじゃうんですか?」
それを思うと頼子は少しだけ悲しくなった。先輩は缶コーヒーを飲み干すとゴミ箱に捨てる。
「まあ、お迎え現象が起きて1ヵ月とか、3ヶ月とかで死んじゃうっていうのはよく聞くけど……」
「けど?」
「正直わからないわ。別に田中さん健康体だし、特別ボケてるわけでもないし。それにお迎え現象自体科学的な根拠のある話じゃないからね。さ、休憩終わり、仕事の時間よ新人」
その日は夜勤だった。
受け持ちの介護者の夕食を済ませ、お風呂に入れて、宿直室に戻ってきた頼子は一息ついた。
遅めの夕食を済ませ、書類を整理。
そして少しの仮眠に入る。
夜は交代で見回りもあるからそのための仮眠だった。
「先に失礼します」
「はいよ。2時間後には起こしに行くからよろしくね~」
頼子は宣言通り2時間後には先輩にたたき起こされた。
「じゃ、私も仮眠とるからお休み~」
寝ぼけ眼で介護施設の廊下を歩く。光量が抑えられた蛍光灯の灯りだけじゃ心もとないので懐中電灯を付けながら回っていく。
夜の介護施設は死んだように静まり返っていた。
ゆっくりと進んでいくと、廊下の先が少し明るい。
同時に微かな音が耳に届いた。
うめき声のような、何か。
頼子は一瞬ひるんだが、その先の部屋の明かりが廊下に漏れているのと、その部屋が田中さんの部屋だと気づいて少し安心した。
田中さんなら何かしでかしたりはしないだろう。
だが、その田中さんがうめき声をあげているのだとしたら……。
頼子は扉まで走った。
やはりうめき声はこの部屋からだった。
頼子は焦りながら扉を軽く叩いた。
「田中さん? 大丈夫ですか、入りますよ?」
返事を待たずに扉を開けると、田中さんがベッドの上でうずくまっていた。
「田中さん!? 大丈夫ですか? どこか具合でも……」
揺り起こすように体を揺すると、彼はゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥でその瞳からぽろぽろと涙がこぼれていた。
「苦しいんですか? 痛いんですか? 待っていてくださいすぐに救急車を」
頼子が宿直室に無線連絡を入れようとすると、田中さんはそれを制した。
「ちがうんです、どこも、何も悪くはありませんよ……。うれしいんです」
泣きながら朗らかに告げた田中さんに、頼子は唖然とする。
「うれしいって……どういうことですか?」
「死んだ妻がね、会いに来てくれたんですよ。だからうれしくて消灯時間は過ぎていると分かっていたんですが、つい妻の顔をよく見たくて明かりをつけてしまいました……」
田中さんは、頼子の後ろの壁を見ていた。頼子は背筋がぞっとし、振り返る。だが、そこには何もない。
……彼は何を見ているのか。
「じょ、冗談はやめてください! いくら田中さんでも怒りますよ!」
頼子は動揺を隠すために叫んだ。
田中さんは朗らかな笑みも涙も消して、無表情になった。
「冗談? 頼子さん、今まで私が冗談を言ったことがありますか? ああ、そうか。あなたも目が悪いんでしょ? それならこの眼鏡を貸してあげますから掛けてください。そしてよく見てみてください。私の言ったことが冗談ではないとわかりますから」
田中さんは怒っていた。それがここまで接してきた頼子には分かった。
無言の圧力に負けた頼子はその眼鏡をしぶしぶ受け取り、かけた。
そして田中さんが指さす先へ、振り向く。
「…………あ」
頼子は見た。
度の合わないガラス越しに、黒い人影が手招きしている姿を。
それから数日も経たずに田中さんはなくなった。
最期を迎えた彼の表情は穏やかだった。
先輩は言った。
「科学的な根拠はないって言ったけど、お迎え現象は人間が穏やかな最期を迎えるため、受け入れるための期間なんだってさ。最期に親しい人が訪ねてきてくれて田中さんは幸せに死ねたんじゃないかな……」
「ええ、そう願います……」
彼が視ていたものがなんなのかは今となってはわからない。
だが、頼子は確信していた。
あの手招きする黒い人影とは違うと。
だって、それは今も……。
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