ある朝

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 庭の木々も秋の装いを始めたようだ。  オレは朝食の代わりに音楽を聴く。芸術の秋を気取っているわけではない。オレの一年を通しての日課だ。音楽に耳を傾けながら、オレはアップルベントのパイプを咥え、ネイバーのマッチで火を点ける。ダニッシュブラックのバニラの甘い香りがオレの鼻腔を優しく愛撫する。  妻はモカマタリを淹れてくれている。非水洗式のヤツで甘い香りがリビングに満ちる。オレは甘い香りが好きだ。  妻はエルメスのカップに注ぐと、オレの座るアンティークショップで見つけたコムバックタイプのロッキングチェア脇の、同じくアンティークショップで見つけたサイドテーブルにそっと置く。オレは微笑を浮かべて妻を見る。妻も微笑む。  オレは音楽を止めた。 「あら、どうなさったの?」 「ちょっと曲を変えようかと思ってね」 「たしかに、バッハのゴールドベルク変奏曲では、眠くなっちゃうわね」 「いや、グールドの演奏のものだから、逆に目が覚めてしまうよ」 「まあ……」  妻はくすっと笑う。いつ見てもこの笑い方は可愛らしい。 「今朝は、なんだか君と踊りたい」 「朝から?」 「嫌かい?」 「曲に依るわ……」 「ふむ……」  オレは曲をかけた。バンドネオンの音が流れてくる。 「ラミファミファミドラ、ラミファミドラミファ……」音感の良い妻が口ずさむ。「ピアソラのリベルタンゴね……」 「そうだよ」オレは言ってロッキングチェアから立ち上がる。「おいで……」 「恥ずかしいわ……」 「見ているのはオレと庭の小鳥たちくらいさ」  妻はくすっと笑って、オレの差し出した手を取る。  バンドネオンの刻むリズムに、すっとメロディが乗って来る。 「あら、これはチェロね」 「そうだよ。オレの好きなヨー・ヨー・マだ」 「素敵ね……」  タンゴの本来の激しい踊りは出来ないが、オレたちはチェロとバンドネオンの奏でる哀愁の音色に身を任せる。  オレのほんのささやかな一日のはじまり。
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