プロローグ

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プロローグ

 その時、一筋の風が通り抜けた。  その風は青春の様な爽やかな風ではなく、妖しく、重たい。  青春の風が澄んだ青色だとしてこの風に色をつけるならばきっとくすんだ紫色だ。  しかし、そんな風も僕にとっては青春だった。それがどんなに不吉な色をした風だろうと、自分はそれを受け入れただろう。青春なんてこんなものだろうと、僕は心の中で諦めていたのだ。  だが、そんな青春も案外悪くない。どんな青春だって、どんな結末だって僕にとってかけがえのないものになるだろう。  彼女はこちらを振り向いて言った。 「――私は君が大嫌いだ」  この物語は決して良い結末(ハッピーエンド)ではない。しかし、悪い結末(バッドエンド)でもない。僕はこの人生の一頁を物差しで計ることなんて出来ない。これは、他の誰のものでもない僕だけの青春であり、清算である。 * * * 「あぁああぁあぁああぁぁぁぁああぁあああ!!!!」  思わず耳を塞ぎたくなるような叫び声の後に、高いところから落ちた肉の塊が地面に着地する鈍い破裂音がした。それは、僕の手の届く範囲で初めて人が死んだ瞬間だった。  崖の下の様子を少し想像するだけで猛烈な嘔吐感を催す。肌をぽつぽつと打つ小雨は次第に強くなり、先程の叫び声をまるで飲み込んでいくかの様に雨音を強くする。雨とともに降っていく君を思い出すだけで、僕の頭は真っ白になる。  僕はただ、彼女が目の前から消えていくように、崖から落ちる瞬間を、茫然と眺めていることしかできなかった。  泥濘んだ土と怠くなるような雨の匂い。それらが混じった汚い泥の香りが厭らしく鼻孔を刺激した。眼の前の崖に残る足跡に僕の心臓は酷く焦燥(しょうそう)を感じた。  高校二年生の七月。梅雨。 ――その日、僕は生まれて初めて断末魔の叫びを聞いた。  断末魔といえば基本的にそれを叫ぶ時は『悲劇』の真っ最中であり、その人にとってバッドエンドの時である。  先程、女性が泥濘(ぬかるみ)足を滑らせて崖から落ちた。  その崖は人が落ちればまず無事ではいられない程の高さであり、運良く死ななかったとしても重症は免れないだろう。  彼女は死に際の必死さ故か、強い叫び声を上げていた。その断末魔の叫び始めから、重くて鈍いが鼓膜に振動するまでの時間はあっけないくらい一瞬だった  僕にとって、断末魔とは死の産声である。  確か、三年程前だったろうか。僕――春谷光(はるたにみつる)が中学生の頃にクラスの発表会で皆で演じた『サバンナの王』という劇では、ライオンが断末魔を叫びながら崖から落ちていくシーンがあった。ライオン役の人はそこで大きな叫び声をあげ、凄まじい怪演だったのがトラウマかというぐらい脳裏に焼き付いている。  その場面で僕は初めて断末魔の叫びというものを知ったのだが、知った当初は恐ろしく脳裏に焼き付いていたものの、今思い返せば結局劇の演技なんてものは偽物に過ぎなくて、子供が行う子供騙しであり、それは断じて断末魔の叫びと言えるものではない。  しかし、劇の物語でも現実でも断末魔の叫びの後にはそこに必ず死が残る。それは死の間際の叫びであるので、断末魔の叫びを聞く時は決まって最悪な事が起こる前触れなのだ。  つまり、僕にとって断末魔とは『最悪』の象徴であり、この叫びの後には必ず不幸が約束されている。そんなイメージが僕の脳に深く刻まれている。  しかし、たった今本物の断末魔を聞いてしまった僕にとって、劇での叫びの記憶などチープ過ぎる子供騙し以下としか思えなかった。長年のプロの演技であっても、今の僕には子供の演技以下くらいにしか思えないだろう。  本物の断末魔なんて僕は人生で一度も聞くつもりなんて無かったはずなのに、人生というものは本当に予期せぬ事が起こるものである。  あまりの衝撃に脳が処理しきれていない僕は、彼女が目の前から消えていくように落ちる瞬間を小雨にうたれながらただ呆然と見ていることしか出来なかった。あまりに現実感が無くて、驚きのあまり体が動かなかったのだ。  僕は落ちていった女性を知っている。  彼女の名前は霧条蛍夏(きりじょうけいか)。僕が通う高校の女教師の一人である。あの地獄のように黒い長髪は彼女以外にありえない。  僕の頭がようやく目の前の光景を知覚する頃にはもう既に肉塊が着地する鈍い音が鼓膜を刺激していた。 「な、なんとかしなくっちゃ……!」  何をしてももう手遅れだというのに、それが状況の把握を終えた脳が咄嗟に出した言葉だった。  冷たい雨が頬に触れ、肌が敏感に震える。  その雨の冷たさが狼狽える僕を現実に戻す。恐怖で息が荒くなる。おぼつく思考で状況を再確認し、パニック状態になった脳は思考を整理する暇もなく、思考よりも先に体が動き出した。むしろ、考えることができたのなら、僕の体は動けなかっただろう。 「だ、大丈夫ですか!?」  大丈夫なはずがないのは分かっている。恐らく、僕の声はもう彼女には届いてないのだろう。そんなこと分かりきってはいるが、勝手に口からそんな言葉が出た。僕は彼女の安否を確認するために雨に打たれながら小走りで崖の方へ向かう。  少し崩れた崖の端から首を伸ばし、下を見渡す。その崖の下の景色をみて、僕は驚愕し、恐怖した。  もしかすると、見なければよかったのかもしれない。見てはならなかったのかもしれない。  何故なら――そこには崖から落ちた彼女、霧条蛍夏の死体がからである。  彼女の死体どころか血液すら見当たらず、肉の一片すら視認できない。落ちたのならば必ず崖の下に倒れているはずである霧条蛍夏の肉体は、どんなに見渡しても、目を凝らしても何処にもなかったのだ。 「頭が痛い…………」  あまりのことに脳が考えることを拒否している。確かに僕はこの目で見た。霧条先生が崖から落ちていくところを見たはずなのだ。  僕の頭の中は謎で埋め尽くされる。死体が消えるなんてことが到底信じられず、霧条先生の行方を確実に確認するために落ちないように四つん這いになりながら必死に目を凝らして辺りを見渡す。   すると、霧条先生が足をとられた泥濘の近くに猫目石のブレスレットが泥塗れになって落ちていた。  ――これは確か、霧条先生の私物だ。  彼女は授業中にもよくこのブレスレットを身に付けていたのを思い出す。僕はそれを拾い上げようと手を伸ばすと、猫目石の輪に部分に指を通した瞬間、もう片方の腕が泥濘に取られ、不意にバランスを崩した。  あっ――なんて、声を出すタイミングも無く、顎が地面を直撃し、その拍子に僕の体は崖から放り出される。  僕としたことがブレスレットに夢中になり過ぎて周りが見えていなかった。  崖から落下していく僕の体はまるでスローモーションの様に、ふわふわと宙に浮いている様にも思えて、それでもやっぱり徐々に落下していく。  この状況は僕の人生の中で一番にピンチな状況であるにも関わらず、僕の脳味噌はこんな状況とは裏腹に不思議と焦りや不安といった感情は無い。ただ現実逃避をしているだけだ。  そんなことを考えている間にも呑気な僕とは相反して、落下するスピードは加速していく。  僕は思考の片隅であの日の劇をふと思い出す。ライオンは断末魔を叫んで死んだ。  しかし、僕は顎を地面に強く打ち付けてしまったせいで断末魔の叫びどころか声すら出せない。  ――だが、むしろそれは良いことなのかもしれない。  断末魔の叫びが僕にとって最悪の象徴であり、その叫びの後には『死』しか残らないのであれば、わざわざそんなもの叫ぶ必要なんてないのではなかろうか。  馬鹿らしいなんて承知の上だ。出来の悪いジンクスもどきだ。  それでも――叫ばないことこそが今僕に出来る精一杯の『死』への“足掻き”であると思ったのだ。  どんなに陳腐な発想でも、信じないで死ぬよりも、信じて死んだ方がいくらか幸せだ。  これで命を落としたとしても、僕は最後まで死に抵抗したのだと胸を張れる。  あぁ、そろそろ地面だろうか?  僕は落下するにつれて次第に加速していく風と意識の中で、夢見がちで幼稚な淡い希望を抱いた。  *** 「――というのが、つい先日起こった出来事なんですよ。」 「ほぅ、君は先日私が崖から落ちて死んだというのか。ならば、此所にいる私は一体誰なんだ?」  あの日、は不機嫌そうに腕を組み、疑問を抱く眼差しはこちらの瞳を睨みつける。  その鷹の様に凶悪な眼光は悪い冗談ならただでは帰すまいと釘を刺しているようで、緊張のせいか僕の額に一筋の汗が垂れた。それでも僕は質問を続ける。 「それは僕の台詞です。先生は何なんですか。幽霊なんですか? それともドッペルゲンガーですか?」  ふざけた様な発言の内容とは裏腹に真剣な僕の顔を見て彼女は手を自身の顎に添える。数秒考える素振りを見せて眉間に皺を寄せながら怒っているのか、呆れているのかの様な低い声で言った。 「……もしや、君はイカれているのか?」  騒がしい声のする学校の廊下。昼休み。  霧条蛍夏(きりじょうけいか)は、呆れた様子で大きな溜息をついた。        
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