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10 白いコウモリ
五十年前。僕らは広い世界に憧れて、大好きな森を抜け出した。貨物船の端っこに乗って三匹だけで。
辿り着いた先には、確かに僕らの知らない世界が広がっていた。だけど、そこに僕らの居場所はなかった。色の違う僕らは、仲間として受け入れてもらえなかったんだ。
飢えを凌ぐだけで精一杯の日々が続き、僕らは遂に森の中で倒れてしまった。
きっとこのまま死ぬんだな。そう思った時、一人の人間が通りかかった。
その人は僕らを一匹ずつ掬うと、自分の指から血を与えてくれた。本当は果物や虫しか食べないけど、その気持ちが嬉しくてたくさん貰った。全員に血を与えると、その人は僕らが天敵に見つからないよう、草陰に隠してから立ち去って行った。
しばらくすると、僕らは見違えるほど元気になった。それどころか寿命が来る気配もないし、人間の体に変身できるようにもなった。そこで僕たちは考えた。
「あの人に会いに行こう」
わずかな記憶を頼りに、僕らはもう一度旅に出た。冴えた月のような、近寄り難い美しさを持つ人を探して。
九月中旬。暑さも少しずつ鳴りを潜めてきた、ある日の放課後。日暮れ高校は、一週間後に控えた文化祭の準備で大忙しだった。ちあきたちのクラスは喫茶店をやることになり、生徒たちが一丸となって内装の設営や衣装の準備に勤しんでいる。
「ちあきー! 買い出し手伝ってー!」
教室の入り口から声が飛ぶ。ちあきが自席に座ったまま振り返ると、クラスメイトの南が財布を片手に待っていた。
「わかった、今行く」
メニュー表を作っていたちあきは、ペンを置いて腰を上げる。すると、隣にいた沙月が制服の裾を軽く引っ張った。彼女は不安そうな目でちあきを見上げている。
「気を付けてね」
最近はいつもこうだ。少しでも別行動になると、沙月は例の事を思い出して過敏に反応してしまう。
「南もいるし大丈夫だよ」
楽観的に考えている訳ではない。しかし常にビクビクしていたら、それこそ敵の思うつぼだろう。恐ろしい事態に直面し続けたちあきは、いつの間にか腹が決まり吹っ切れてしまっていた。
「心配してくれてありがとう」
彼女はそう言い残すと、南とともに教室を後にした。
「ねえ、あれからどう?」
駅前の通りを歩いていると、南が前置きもなく言った。
「どうって何が?」
首を傾げるちあきに、南はニヤニヤと口の端を緩ませる。
「前言ってたイケメン。気になってるんでしょ?」
どうやら彼女はまだ誤解していたようだ。ちあきは弁明しようと、少しげんなりとした様子で口を開く。
「そういうんじゃなくて、ただの知り合いだよ」
「えーっ! ちょっとは意識したりしてるんじゃないのー?」
年頃の少女にとって、ときめく恋の話は心の栄養なのだろう。ちあきの味気ない答えを聞いて、南はつまらないと言わんばかりに口を尖らせている。
「……別に、そんなことは」
「あっ、今ちょっと言葉に詰まった! やっぱ好きなんでしょ!?」
「だから違うって」
そう言いながらも、ちあきの口調には迷いがあった。南の言う意味とは違うが、あの男が気になっていることに違いはないからだ。
不遜な態度の中に、時折垣間見える優しさ。その掴めない性格に翻弄され、未だに距離を計りかねている。こちらは情報が把握されているのに、自分のことは全く見せないという不公平な状況も、その原因の一つだろう。
名前を聞いた時にもっと追及しておくんだった。自分の弱腰な姿勢に落胆する彼女の隣で、南は突然明るい声を上げた。
「ちあき! ほら、噂をすればだよ!」
「え?」
顔を上げると、ちょうど前方から響介が歩いて来るところだった。腕には大量の荷物を抱えている。また買い出しを頼まれたようだ。
「やばい、超かっこいい~!」
彼の顔を見た南は、大興奮してちあきの腕を揺さぶっている。知らぬが仏とはこのことだろう。
南が騒ぐので、響介の方もちあきの存在に気づいたようだ。彼は真っ直ぐにちあきの前まで来ると、ぴたりと足を止めた。必然的に顔を突き合わせる形になる。
「久しぶり」
「あぁ」
思わず声を掛けたが、話題もなく会話は早々に終わりを告げる。
そう言えば、しばらく血をあげていないが大丈夫だろうか。少し気まずい空気の中、ちあきは約束のことを思い出して、彼の顔をじっと見つめた。恐らく佳哉が面倒を見てくれているのだろう。顔色は健康そのもので、食いはぐれてはいないことが見て取れる。
ちあきがほっと胸を撫で下ろした時、南は顔を真っ赤にしながら口を開いた。
「あのっ、ちあきの知り合いなんですよね?」
「まあ一応」
その不愛想な対応には目もくれず、南は懐から取り出した紙を彼に差し向けた。文化祭のチラシである。
「今度、私たちの学校で文化祭やるんです! 良かったら来てください!」
「えっ、南!?」
突然のことに驚き、ちあきは目を見開いて南を振り返る。すると南は彼女の肩をぐいっと掴んで、強引に後ろを向かせた。口元に丸めた手を当てて、内緒話の姿勢になる。
「一緒に文化祭回ったら、気が変わるかもしれないでしょ! 何事も経験よ!」
余計なお世話だ。しかし、今抱えている問題をずばり指摘されているようで、ちあきは何も言い返せなかった。
ちあきは怖々と振り返る。彼は渡された文化祭のチラシを興味無さげに見つめていた。
「あの、良かったらでいいから」
「わかった」
戸惑いがちに言うと、響介は端的に答えて去って行った。相変わらずよく分からない男だ。音もなく人ごみに消えて行く背中を、ちあきはしばらく凝視した。
「当日が楽しみだね」
この子は若干面白がっているのではないだろうか。奇妙な含み笑いを浮かべる南を、ちあきはじとっとした薄目で見やった。
そして文化祭当日。喫茶店は盛況で、人が途切れることなくやって来た。休む暇もなく接客をしなければならず、ちあきたちは疲労困憊である。
「ちあき、交代!」
教室の隅に作られた簡易のバックヤードから、南がひょこりと顔を出す。目まぐるしく動いているうちに、時刻はあっという間に正午を回っていた。
「ありがとう」
午前と午後の二交代制で店を回しているので、午前組のちあきはこれで自由だ。この後は、同じ午前組の幼馴染二人と模擬店を見て回る約束をしている。
仕事が終わって清々しながらエプロンを脱いでいると、南がにやけ顔で耳打ちをしてきた。
「あの人は来た?」
忙しさで忘れたと思っていたのに。余計なことをと、ちあきは顔をしかめる。
「まだ」
「そっか、何かあったら教えてね!」
笑顔でホールに出て行く南を複雑そうな目で見つめる。正直、楽しみという気持ちはこれっぽっちもない。強いて言うなら何が起こるか分からない不安と、本当に来るだろうかと言う若干の好奇心があるだけだ。
「ちあき、終わったー?」
バックヤードで立ち尽くしている彼女のもとに、沙月と宙がやって来た。
「他のクラス回って来ようよ」
どうやら先に交代が来ていたらしい。二人は財布やスマホをポケットに入れて、既に準備万端である。
「うん、ちょっと待ってて」
ぱぱっと支度を整えると、ちあきは教室の外に出ていた二人と合流した。
「お待たせ。先にお昼食べる?」
「そうしよっか! 二人は何食べたい?」
「俺、五組の焼きそば食べたいな」
和やかに話しながら廊下を歩いていると、前方から三人組の少年たちが歩いて来るのが見えた。着るにはまだ時期の早い学ラン、しかも白色という珍しい出で立ちである。遠くの学校から来たのだろうか。すれ違う人全てに何かを尋ねており、非常に困っていることが窺えた。
「あの、お姉さん!」
案の定、少年たちはちあきたちのもとにもやって来た。
「どうしたの?」
恐らく中学生くらいだろうか。その純朴そうな顔に、ちあきの態度は自然と軟化した。
「僕たち人を探してるんです。こんな人知りませんか?」
少年の一人が、ちあきに一枚の紙を差し出す。そこには似顔絵が描かれていたが、お世辞にも上手いとは言い難い。まるで幼稚園児の落書きレベルのものだった。人相どころか性別すら分からないヒントに、ちあきたちは頭を抱える。
「えーと、ちょっとわからないかな……」
「そうですか……」
がっくりと肩を落とす三人を見て、ちあきの胸はきゅっと締め付けられた。傍らにいる二人に、懇願するような視線を走らせる。すると意図を察したのか、二人は「仕方ないなあ」と困ったように笑い返した。理解が早くて助かる。ちあきは意気揚々と口を開いた。
「あの、探してるのはどんな人? 詳しく教えてくれればわかるかも……」
「えっ、手伝ってくれるんですか!?」
「まあ、わかる範囲なら……」
「ありがとうございます!」
ちあきの言葉を聞いて、三人の目に涙が浮かんだ。
「探してるのは男の人で、すーっごく背が高くて、すーっごくかっこいい人なんです!」
「あと黒い服を着てました!」
「それと八重歯がありました!」
少年たちが身振り手振りで一生懸命伝えてくる内容に、ちあきたちは顔を見合わせる。そして示し合わせたように後ろを向くと、身を寄せ合い小声で緊急会議を始めた。
「ねえ、まさかだけど響介のこと……?」
「いや絶対そうでしょ! この辺で今の特徴に当てはまる人なんてそういないって!」
「だとしたら、この子たちは一体何の用なんだろう」
一見無害そうな三人だが、吸血鬼は見た目を変化させられると聞いた。もし仮に彼らが敵だとしたら、響介に近づけるのは危ないだろう。それどころか自分たちの身も危ないのではという結論に至り、三人は唾を飲み込んだ。
ゆっくり振り返ると、ちあきは三人にぎこちない笑顔で告げる。
「ごめんね? ちょっと思い当たらないかなあ……?」
「わ、わかりました……」
三人はぺこりと頭を下げると、再度しょんぼりと肩を落として去って行った。その姿を見送りながら、沙月はちあきに耳打ちをする。
「ちあき、危ないかもって教えたほうが良いんじゃないの?」
「うーん、そうだね……」
場所を変えて響介を呼ぶか。そう考え始めた時、ふと窓の外に目が止まった。
「あっ、いた!」
ちあきが指さした方を見て、沙月と宙は目を見開いた。正門から響介が入ってくるところが見えたのだ。
「えっ、何で来てんの!?」
「意外だね」
二人の反応に、ちあきは乾いた笑いを浮かべる。
「この前買い出しに出た時にばったり会ってさ。南が強引にチラシを渡したの」
ちあき自身も「本当に来るとは思わなかった」と驚いているところだ。呑気に構えていると、沙月が焦った様子でその肩を掴んだ。
「笑ってる場合じゃないよ! あの子たちと鉢合わせたらまずいんじゃないの!」
「あっ!」
事態の重大さに気づき、慌てて外を見やる。響介は折悪く建物内に入ってしまった。
「どうしよう……!」
「手分けして探そう! 見つけたら連絡するから!」
沙月は緊張感のある顔をしながらも、極めて冷静な態度で言った。
「宙はあっち!」
「えぇーっ、俺も?」
「つべこべ言わない!」
宙を急かすと、沙月は階段を猛スピードで下りて行った。不満そうな宙に申し訳なさを感じながらも、ちあきは二人と別れて学内を駆け出した。
校舎はコの字に三つの建物が連なっており、一から四階まで存在している。全て探すとなるとかなりの広範囲だ。ついさっき校舎に入ったばかりだから、まだ上階には行っていないだろう。しかし、何処ですれ違うかは誰にもわからない。
目を皿にして全速力で探していると、理科室や音楽室がある人気の少ない特別棟の二階で響介の姿を発見した。迷子にでもなったのか、地図を見ながら辺りを見回している。
ちあきが安堵して声を掛けようとしたその時、響介の向こうの階段から見覚えのある三人組が下りてきた。
「あっ、見つけた!」
響介に気がつくと、三人組はちあきが声を掛けるより早く駆け出した。
「だめ!」
慌てて駆け寄り響介に手を伸ばす。普通に走っているはずなのに、その間はスローモーションのように感じられた。ちあきの手は間に合わず、響介は三人組に飛び付かれる。そして彼は勢いのまま廊下に倒れ伏した。
「響介!」
あんなに強い奴が簡単に倒れるなんて。まさか包丁でも刺されたのだろうか。嫌な想像が浮かび、ちあきの顔は青ざめる。
「お前たち、誰だ……?」
響介はくぐもった声を上げながら上半身をゆっくり起こした。どうやら無事ではあるようだ。それでも気は抜けない。恐る恐る近づくと、少年の一人がにっこり笑って言った。
「僕たち、恩返しに来ました!」
校舎の中だと目立つので、ちあきたちは裏庭に場所を変えて話を聞くことになった。
「僕たち、遠い海の向こうからやってきたコウモリなんです!」
「はぁ……」
ちあきは怪訝な表情を浮かべる。彼らの話は非常に突飛なもので、開いた口が塞がらなかった。沙月は興味深そうに聞いているが、宙はちあきと同じように顔をしかめている。
「森で行き倒れている所を助けて頂いてから、ずっとあなたを探していて……」
「覚えてないですか?」
「覚えてない」
目に涙を浮かべて小首を傾げる少年に、響介は淡々と言い放った。ちあきはタイミングを見計らって、おずおずと三人に問いかける。
「あの、君たち人間にしか見えないんだけど」
「あぁ、それはですね」
立ち上がった三人の身体が、突然ポフンと軽い音を立てて煙に巻かれる。すると、その場に白く小さな三匹のコウモリが現れたのだ。
「血を頂いてから、人間にも変身できるようになったんです!」
吸血鬼である響介の血なら、きっとそういうこともあり得るのだろう。いや待てよ。
ちあきは納得しかけていた考えに歯止めを掛け、響介の袖をくいっと引っ張る。
「ねぇ、吸血鬼って人間以外にも変身できるの?」
彼女が小さく耳打ちをしたので、響介も声のボリュームを落として答える。
「吸血鬼が変身できるのは人間だけだ。他の生き物には変身できない」
「そうなんだ……」
なら彼らが敵という線は薄そうだ。響介に敵意を向けている様子もないし、ひとまずは安心である。しかし、まだ一つ気になることがあった。
「コウモリって、普通黒じゃないの?」
「そうなんです。こっちに来たら皆色が黒くて驚きました!」
彼らは紛れもなくコウモリの形をしているが、色は真っ白だ。新種か何かだろうか。この素朴な疑問には宙が答えてくれた。
「俺、前にテレビで見たことあるよ。アメリカだったかの森の方には、こういう種類のコウモリがいるんだって」
「初めて聞いた」
ちあきは物知りな宙に感心しながら、まじまじと三匹を見つめた。顔や羽は確実にコウモリのそれなのに、身体はコロンと丸く、黄色の耳と鼻は子豚を思わせる感じで可愛いらしい。見れば見るほど撫で回したくなる生き物だ。
「あの、話を戻してもいいでしょうか?」
「あ、うん! ごめんね!」
無意識のうちに伸びていた手を引っ込めると、ちあきは勢いよく後退る。三匹は人間形態に戻ると、再び響介に詰め寄った。
「助けて下さったのはあなたで間違いないんです。響介さん!」
「あなたが覚えてなくても、僕たち恩返しをしないと気が済まなくて……」
「何か力になれることはありませんか?」
子犬のように目を潤ませる三人に、響介は珍しくたじたじになっている。
「何かと言われても……」
そう言いながら彼は辺りに視線を走らせる。しばらく彷徨ったそれは、数秒後にちあきの所で止まった。
「じゃあ、こいつを見張っててくれ」
「えっ?」
突然指をさされ、ちあきから間の抜けた声が出てしまう。
「俺たちは今、訳あって危ない奴らに狙われている。こいつの近くで異変が無いか見ていてくれないか」
「わっかりましたー!」
「お安い御用です!」
三人はやる気満々な様子で答える。まさか自分の警護を頼むとは思ってもみなかった。自分の身を案じてくれたことに、ちあきの胸は熱くなる。
「頼んだ。何度言ってもフラフラ出歩くから困ってたんだ」
そんなことだろうと思った。感動も束の間、ちあきはがっくりと肩を落とした。この男にとって、どうせ自分はただの食糧でしかないのだ。しかも、手のかかる能無しというレッテルまで張られているらしい。悔しいが返す言葉が見つからず、ちあきは唇を噛んだ。
「話は終わった? 三人にいろいろと聞きたいことがあるんだけど……」
気が付けば、興奮を抑えきれない様子の沙月が、うずうずとメモを構えて待っていた。
「ぼっ、僕たちで良ければ!」
「やったぁ!」
快諾した三人に、沙月は次々と質問を飛ばす。隣では宙まで一緒になって話を聞いていた。ああ見えて彼も面白い話が好きで、時々意外な食いつきを見せたりするのである。可哀そうだが、二人の探求心の餌食になった彼らはしばらく解放してもらえないだろう。
その様子を響介と並んで遠巻きに見ながら、ちあきは口を尖らせた。
「心配して損した」
先ほどの苛立ちを引きずり、少しばかり刺々しい物言いで吐き捨てる。
「何が心配だったんだ?」
しかし、響介はあまり気にした様子もなく、不思議そうな顔を向けてくる。毒気を抜かれてしまったちあきは、素直に口を開いた。
「あの子たちが敵だったら、あんたが死んじゃったかもしれないでしょ」
響介は一瞬面食らっていたが、すぐにいつもの無表情に戻る。
「大丈夫だ、俺は死なない」
やはり聞き間違いではなかった。彼は確かに死なないと断言した。佳哉の話との食い違いに、ちあきは首を傾げる。
「あの、死なないってどういう……」
ほんのわずかだが、響介は悲しそうに微笑んだ。
「そのままの意味だ」
初めて見る表情に、ちあきの胸はじりっと音を立てた。こんな顔も出来るのかという発見とともに、また一つ距離が開いたような感覚が襲う。
彼は絶対に何かを隠している。それが何なのか、どうして自分には話してくれないのか。ちあきの悩みは深まるばかりだった。
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