12 心臓

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12 心臓

 微かに感じる上下の揺れとともに、胃を圧迫される感覚が襲う。ちあきが押し寄せる吐き気に目を開けると、薄暗い視界の中を淀んだ泥道が流れていた。 「うぅっ、ここは……?」 「あぁ? 何だ起きたのか」  降り注ぐ嗄れ声に顔を上げる。ちあきを小脇に抱えていたのは、先ほどの若い男だった。彼は目を覚ましたちあきを、酷く鬱陶しそうに見下ろしている。  そうだ、私はこの男に気絶させられて―――。  気を失う前の出来事を思い出し、ちあきは青ざめた。 「ちょっと、私をどうする気!?」  自分を抱える腕に掴まって身を起こしながら、男を問い詰める。 「どうもしねえよ。ただ、手前にうろちょろされると困るって方がいてね。少しの間、牢屋にぶち込んでおきてぇんだとさ」  男の愉悦に塗れた笑みと、肺腑に流れ込む森の黴臭い空気が、頭をぐちゃぐちゃに掻き回していく。黒々とした夜の荒波のような思考の中、それらを掻き分けるようにして、あの不愛想な男の顔が浮かんだ。 「いいぜ、助けを呼んでも」  ちあきの考えを悟ったのだろうか。男はあっさりと口にした。 「そん時は、手前(てめえ)のオトモダチの身体がタダじゃ済まねえけどな」  弄ぶような言葉が、ちあきを再び奈落に突き落とす。これは脅しや冗談じゃない。それは錆びついた、それでいてギラギラと光る男の目を見て感じて取れた。 「物分かりがいいじゃねえか。そういう奴は嫌いじゃないぜ」  黙り込んだ彼女を見て、男が満足したように口角を上げる。しかし、開けた場所に出た次の瞬間、周囲に竜巻のような激しい突風が吹き荒れた。土埃が入り込み、思わず目を強く瞑る。戻って来た視界の向こうには、あの黒い影が立っていた。 「響介!」 「お前、何でここが……っ!」  目を見開いる男に、彼は淡々と言い放つ。 「そいつの首を見ればわかるだろ」  男は、左脇に抱えているちあきの身体に目を向ける。わずかに覗く首元には、所有の証である十字の噛み痕が浮かんでいた。 「ちあき!」 「沙月!」  少し遅れて、彼の後ろから沙月と白コウモリたちが駆けつけた。数メートル離れた木の陰からこちらの様子を窺っている。恐らく、彼らが響介を呼んでくれたのだろう。  一変した状況を目の当たりにして、男は立ち尽くした。しかし、俯いたその顔から、すぐに不気味な含み笑いが零れ始める。 「へえ。噂に聞いちゃいたが、随分とこの女に入れ込んでるみてえだな。そんなに力が欲しいのかよ」 「お前らと一緒にするな」  男の頬がピクリと引き攣る。彼は木の根元にちあきを投げ置くと、片方の口角を吊り上げて舌なめずりをした。 「気に食わねえなあ。もっと悲しみに歪んだ表情を見せてくれよ」  男の拳が響介の眼前に迫る。その指には、銀色に鈍く光る輪のようなものが嵌まっていた。メリケンサックだ。当たったら大怪我は避けられないだろう。  響介は連続して繰り出される攻撃を避けながら、円形に開けた森の中を四方八方に移動していく。その様子をちあきが不安そうに見つめていると、ふいに響介の視線が彼女の方へと滑った。苦しそうな金色の目とかち合う。束の間の出来事はスローモーションのように切り取られ、ちあきの心を激しく揺らした。 「ほらほら、よそ見してたら危ないぜ」  男の挑発するような声により、再び緊張感が舞い戻る。気が逸れていたせいか、響介の拳は空を切った。間合いが近づいたところを狙って、男の肘が叩き込まれる。間一髪で攻撃を防いだ両腕は鈍く重い音を立て、かなりの衝撃があったことを物語っていた。 「ははっ、久々に手応えがあるな。だけど、これならどうかな?」  男の視線がちあきを捉えた。瞬間的に迫った拳にひゅっと息が詰まり、両腕で庇う姿勢を取る。しかし、予想していた痛みは訪れず、代わりに何かを殴打するような音が目の前を横切った。 「……何?」  驚いて顔を上げると、目前にあったはずの男の身体は、遠くに吹き飛んで地面に叩きつけられていた。音の正体は近くの木の幹に当たり、男の脇へと転がり落ちていく。しばらくして動きを止めたのは、細かい傷の入ったサッカーボールだった。 「ちあき、大丈夫!?」  名前を呼ばれたちあきは、声のした方に顔を向ける。沙月たちの隣に、息を切らせた宙が立っていた。 「宙くん!? どうしてここに!?」  今は間違いなく試合中のはずだ。ちあきは驚いて声を上げた。 「沙月が急に飛び出していったから気になって……」  いいから、早くこっちに! 切羽詰まった様子の彼に促され、ちあきはその場を離れようと立ち上がった。しかし――― 「行かせねぇよ」  低く唸るような声がそれを引き止める。 「ちあき、後ろっ!」  沙月に言われて振り返ると、倒れ伏していたはずの男が、ちあきに向かって腕を振り上げていた。 「……っ!」  反射で身を縮めたその時、彼女の身体に影が差した。肌に生温い何かが吹き付け、ちあきは訳もわからぬままに目を開く。身体にベタベタとした赤い液体が付着していた。ボタボタと落ちる雫の先を追う。目の前の見慣れた黒い背中からは鋭い刃先が飛び出し、じわじわと滲む液体が彼の服をさらに重い色に染め上げていた。 「武器が一つだけだと思ったか?」  おぞましい光景に愕然とする中、男の言葉が戦闘に終止符を打つ。その途端、眼前の背中がぐらりと揺れた。 「響介!」  ちあきが支えようとするも間に合わず、響介は膝から地面に崩れ落ちた。彼は胸を押さえながら、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。 「いい反応だなぁ。だけど、そいつの心配はしなくても大丈夫だぜ」  響介に駆け寄って肩を支えるちあきを見て、男は何でもないようにほくそ笑む。 「そんな訳ないでしょ! 心臓にナイフが刺さってるのよ!?」 「だから、そいつは良いんだって。何せ不死身だからな」  男は苛立った調子で答える。言葉を上手く飲み込めなかったちあきは、困惑して顔をしかめた。 「どういうこと?」  彼女の返答に、男は一瞬だけ目を見張った。無知な彼女に呆れたのだろう。彼は馬鹿にしたような態度で口を開いた。 「知らねぇの? そいつは吸血鬼の中でも特殊なんだよ。人間と吸血鬼の混血(ハーフ)って奴」 「……余計なことを、喋るな」  どこにそんな力が残っていたのだろうか。響介は小さく声を絞り出すと、ゆらりと立ち上がって男の鳩尾に拳を叩き込んだ。男の身体はぐらつき、背後の木にぶち当たる。痛みに顔をしかめてはいるが、その口はさも可笑しそうに吊り上がっていた。 「はっ! 思ったより楽しめたし、今日はこの辺にしといてやるよ」  男はそう言い残すと、光の速さでその場を去って行った。忌々しい姿が遠のき、響介は再び地面に崩れ落ちる。 「わわわっ! 響介さん!」 「ちあき、大丈夫!?」 「わ、私より響介が……っ!」  沙月たちが慌てて駆け寄って来る。三匹は特に目を白黒させて戸惑っていた。  ちあきは青ざめながら、彼の傷口を見る。血は止まりかけているが、痛いことに変わりはないだろう。その証拠に、彼は小刻みに震える身体を両腕で必死に抱きかかえていた。 「宙、こういう場合ってどうするの!?」 「俺たちでどうにか出来るわけないだろ! とりあえず救急車を……っ」  混乱した様子で話し合う二人を、響介は力無く手を上げて制する。 「佳哉を、呼んでくれ……」  理由など考えている暇はない。ちあきは震えの止まらない手を動かし、何とかスマホを取り出した。藁にも縋る思いで電話を掛ける。すると、佳哉は三コール目で出た。 「もしもし、どうしたの?」 「佳哉さん、どうしよう! 響介が……っ!」  その涙声で緊急事態だということを察したらしい。佳哉は努めて冷静な様子で言った。 「落ち着いて、ちあき。すぐに死ぬことは無いから。今そっちに行くからね」  佳哉は返事を待たずに電話を切った。取り落としそうになりながら、スマホをぎこちない動きで下ろす。沙月は放心状態の彼女を気遣うように、そろそろとその表情を窺った。 「佳哉さん、来れるって?」 「うん、すぐ来るって……」  その言葉を聞いた二人と三匹は、ほんの少し安心した様子で身体の力を抜いた。しかし、それも束の間。何故か突然、響介が身体を起こしたのだ。 「ちょっと、じっとしてないと」  佳哉が来るまで安静にしていて欲しいのに。ちあきが肩を押さえるも、響介は全く言うことを聞かない。 「少し、目を閉じてろ」 「は? 何で……」 「いいから」  わずかに脂汗の浮く顔で、響介はちあきを睨む。負傷しているというのに、彼の眼光は相変わらず鋭い。  沙月と宙は、訳のわからない様子で目を瞑った。三匹も身体を後ろに向けてこちらを見ないようにしている。けれど、ちあきだけは頑なに彼を見つめた。 「……早く」 「嫌よ、何するつもり」  泣きそうになりながら反抗する。響介は苦虫を噛み潰したように顔を歪めると、ちあきの目を片手で覆った。微かに血が付着している手は、決して気持ちの良いものではない。  彼女が抵抗するより早く、彼の腹部辺りから妙な音がした。硝子に強く肌を押し当て、無理やり滑らせたかの如く耳障りな音。それが数秒後に止むと、響介はちあきの膝の上に倒れ込んだ。 「一体何を……」 目を開けると、彼の手には男に刺されたナイフが握られていた。 「はぁっ、ナイフを抜いたの!? 何で!?」  沙月が、まるで理解出来ないと言った様子で声を荒立てる。 「ちょっと、しっかりしてよ! 響介!」  ちあきの悲痛な叫び声は、森の中にこだました。 「迷惑かけて、ごめんなさいね」  救急セットの蓋を閉じながら、佳哉は頭を下げた。 「いえ、佳哉さんは悪くありませんから」  ちあきは力無く答えた。胸を裂かれるような思いで、ベッドに横たわる響介を見つめる。  佳哉はあれから数分もしないうちに駆けつけてくれた。彼曰く、吸血鬼たちは特殊な身体のため普通の病院にはかかれないらしい。その代わりに、手早く応急処置を施した後、彼の職場であるバーに運び込んでくれた。血塗れになったシャツはもう使い物にならず、怪我の酷い上半身にはガーゼと包帯だけが巻かれている。 「佳哉、他に何か必要なものはある?」  薫子が、ちあきたちのいる控室を覗き込む。その心配そうな視線を受けて、佳哉は申し訳なさそうに微笑んだ。 「いえ、とりあえず大丈夫よ。ごめんなさいね、場所を借りちゃって」 「いいのよ、大してお客も来ないんだから」  この店は、店長の薫子と佳哉の二人だけで切り盛りしている。そのおかげで融通が利くため、薫子は午後の開店準備も後回しにして治療に協力してくれた。  薫子は頬に手を当てながら、響介に憐憫の眼差しを向ける。 「それにしても、事故に巻き込まれたなんて災難ねえ」  彼は何も知らない普通の人間だ。少し訝しんではいたが、佳哉はそう言ってどうにかごまかしていた。 「身体が頑丈だから、もう少ししたら起きるとは思うんだけど」  ベッド脇の椅子に座っている佳哉が、膝の上でぎゅっと拳を握る。ちあきたちでさえ、狼狽えるほど心配しているのだ。付き合いの長い彼など、言葉では表せないほどに激しく動揺しているだろう。彼の方は大丈夫だろうか。ちあきは重たい瞼の隙間から、佳哉の横顔を見つめた。 「んっ……」  その時、響介がくぐもった小さな声を上げた。 「響介!」  佳哉が叫ぶと、響介は何度か瞬かせながらはっきりと目を開けた。 「ここは……?」 「店の控室よ」  佳哉は落ち着きのない様子で、彼に身体の具合を尋ねている。多少の痛みはあるようだが、命に別状はないようだ。ちあきたちは顔を見合わせて小さく喜んだ。ようやく安心出来たのか、強張っていた佳哉の肩が一気に下がる。雰囲気が和んだところで申し訳ないが、ちあきにはどうしても聞きたいことがあった。 「あの」  躊躇いがちに声を上げた彼女に、皆の視線が集まる。 「話があります」  迷いのないちあきの眼差しに、佳哉は何かを感じ取ったらしい。 「薫子、悪いけど席を外してもらえるかしら」 「……わかったわ」  彼が告げると、薫子は「何かあったら呼んで」とにこやかに去って行った。足音が遠ざかったのを確認して、ちあきは二人に向き直る。 「さっきの奴が言ってました。響介は不死身なんだって。吸血鬼と人間の混血だとも。それって一体どういうことですか? 教えて下さい」  佳哉は響介に物憂げな視線を向ける。しばらく悩んだ後、響介は諦めたようにゆっくりと口を開いた。
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