15 初恋

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15 初恋

 雨雲がたなびき、太陽が薄い膜の奥へと追いやられる。生温い突風がにわかに吹き荒れ、激しく揺れる木々が、ほの暗く辺りに浮かび上がっていた。  視界が悪くなる中、眼前の男は無邪気な笑顔で宙に拳を振るい続ける。 「あはっ、意外と骨があるじゃん! 人間にしては、だけどね!」  その細腕から繰り出される一撃は想像以上に重たく、宙は交差させた両腕で衝撃を防ぐことしか出来ずにいる。もう何十と続く攻撃に、彼の腕は悲鳴を上げそうだった。 「でも、これじゃただの弱い者いじめだろ。そっちからも、攻撃してくれないと、ね!」 「ぐ……っ!」  跳ね上げるように言った語尾に合わせ、男は彼の鳩尾に足を叩き入れる。今までで一番強烈な衝撃により、彼の身体は後方へ吹き飛んだ。アスファルトの上を滑った肌は擦り剝け、てらてらと薄赤い部分が顔を出している。冷たい空気が傷口に染み、宙は眉根を寄せた。しかし、幸いにも酷い打撲は免れている。  彼は気を奮い立たせると、腹部を押さえながら、地面に齧りつくようにして立ち上がった。思い切り内臓を抉られ、中身がせり上がってくる。彼は中心から湧き上がる不快感を、歯を食いしばることでどうにか堪えた。恨めしそうに見上げる彼を、男は鼻で笑って一蹴する。 「そんな目したって、手加減なんかしてやらねぇよ。人を甚振(いたぶ)るのは、俺の生き甲斐だからな!」  下品に突き出された舌の先で、金色のピアスが怪しい輝きを放つ。それが男の不気味さを一層際立たせ、遠のく彼の意識を掻き回した。 「あぁ、そのままじゃ苦しいよな? 今楽にしてやるよ!」  男が地面を蹴り上げ、宙の眼前に拳が飛び込んだその時。二人の間を切り裂くように風が吹き、男の拳は見えない壁に阻まれた。砂塵が舞い落ちる中に現れたのは、黒髪金眼の男―――響介だった。  彼に鋭い眼光を向けられ、男は鬱陶しそうに顔を歪める。 「最悪、もう来たのかよ」 「そう上手くいくと思うな」  響介は受け止めた拳を、骨ばった手で握り込んだ。ギチギチと音を立て、指が男の拳にめり込んでいく。乱雑に腕を振って彼の束縛から逃れると、男は後方へ距離を取って飛び退いた。 「天気悪いし、気分が乗らねえわ」  引きつった笑いを浮かべると、男はドーベルマンを連れて足早にその場を立ち去った。  しばらく男の消えた所を見つめていた響介は、平然とした顔で背後の宙に振り返る。 「無事か?」 「……大丈夫です」  自分の矜持が拒否をしているが、助けてくれた相手を蔑ろにする訳にもいかない。宙はギリギリと歯を噛み締め、重い瞼の隙間から彼を見上げた。  露わになった嫌悪感に気づいているのかいないのか。響介は片膝を付くと、宙の腕を取って全体を注視した。男の攻撃を防いでいた両腕には細かい裂傷が走り、酷い痣が出来ている。 「後で佳哉に見てもらえ。あいつは治療が上手いから」  宙の返事を待たず、響介はちあきのもとに向かおうとする。 「あの、どうしてわかったんですか。俺たちがここにいること」  ちあきの居場所がわかっているにしても、誰も彼のことを呼んでいないはずだ。訝し気な目を向ける宙に、響介はしれっと答える。 「そこのコウモリが連絡を寄越したんだよ」 「……万里が?」  宙がウエストバッグの方に目を向けると、ジッパーが一人でに開いた。そこから万里が、酸素を求めるダイバーのように飛び出てくる。 「もう、酷いですよ宙さん! 中に閉じ込めるなんて!」 「えっ、ああ、それはごめん。でも何で……?」  男と対峙している際に、響介を呼ぶ声など聞こえなかった。文句を叫びながら自分のもとまで来た万里に、宙は再度疑問をぶつける。頬を膨らませて怒った様子ではあったが、万里は律儀に説明をしてくれた。 「僕たちは超音波を使えるんですよ。視力が悪い代わりに、これを使って仲間の位置を特定したりします。さっきは鞄の中で上手く喋れなかったので、一縷の望みにかけて超音波を飛ばしてみました。耳の良い響介さんなら気づくかと思って」 「な、なるほど……」  動物番組でそんなことを聞いたなと思い出し、宙は感心して頷いた。  その間にも響介はちあきのもとに出向き、彼女の肩を抱いて上半身を起こしている。 「おい」  軽く肩を叩かれると、ちあきは何度か瞬きをしながら目を覚ました。 「あれ、響介? 何で……」  ちあきは困惑した様子で頭を押さえると、しばしの間考え込んだ。 「あっ、宙くんたちは!?」  そして焦った様子で顔を跳ね上げる。響介は彼女の問いに対し、顎を使って後ろを指し示して見せた。ちあきは彼の肩越しから、宙を心配そうに見つめてくる。 「宙くん、大丈夫!?」 「あ、うん。俺も万里も大丈夫だけど、大河は……?」  そう聞き返すと、ちあきは慌てて自分の鞄の中を探り始めた。大河をそっと手の平で掬い上げる。少し苦しそうに眉根を寄せてはいるものの、一応無事なようだ。彼女は顔に安堵の色を浮かべ、肩の力を抜いた。 「ごめんね、宙くんが響介のこと呼んでくれたの?」  彼女の目が申し訳なさそうに優しく細まり、宙はたじろいだ。自分は呼んでいない。それどころか、呼ぶものかと意固地になっていたというのに。 「そうです! 宙さんが呼んでくれたんですよ!」  戸惑っている宙に代わり、万里が語調を強めて言う。驚いて彼を凝視すると、万里は何も言うなとばかりに身体を横に振った。 「ありがとう、助かったよ!」  ちあきは少しも疑う素振りを見せず、感謝の意を告げてくる。宙はちくりと胸が痛み、目を逸らして不自然に返事をした。  彼らのやりとりを見つめていた響介は、何も言わずに立ち上がる。 「お前も佳哉に見てもらえ。恐らく脳震盪だから、休めば治ると思うが」 「わかった」  立ち上がったちあきに、彼は「歩けるか」と尋ねる。 「大丈夫。宙くんは?」  彼女が身体を注視しようと目を向けたので、宙は痣の出来た腕を背中に隠した。 「全然平気!」  ちあきに痣が見えないように気を付けながら、宙は拾った鞄を肩に掛けた。そして、佳哉のいるバーへと向かう二人に加わった。 「全くもう、無茶しちゃダメでしょう?」 「……すみません」  佳哉の手当てを受けながら、宙は気まずい顔で項垂れた。バーは昼営業を終えて、休憩に入っている所だった。ちあきと響介は来て早々に薫子に掴まり、二階の休憩室の方へ連れて行かれた。ホールには佳哉と宙と万里だけ。静まり返るバーカウンターで顔を突き合わせている状態だ。 「相手が吸血鬼だってわかってたんでしょう?」 「はい」 「どうして一人で立ち向かおうとしたの?」  厳しい顔で問う佳哉に、宙はだんまりを決め込んだ。 「ごめんなさい、怒ってるわけじゃないのよ」  彼の心境を悟ったのだろうか。救急箱の蓋を閉めながら、佳哉は優しく微笑んだ。 「男のプライドってものがあるわよね。でも、相手は本当に尋常じゃない力を持っているの。命に係わるってことだけは覚えておいて頂戴」 「……はい」  宙が小さく答えた所で、上階からどたばたと騒ぐ音が聞こえた。 「薫子さん! それは無理ですって!」 「やあだ、大丈夫よ!」  一体何が起こっているんだろう。彼が不思議に思い天井を見つめていると、慌ただしく階段を駆け下りてくる音がした。バックヤードに続く扉から、しかめっ面のちあきがホールに転がり込んでくる。彼女は宙の姿を認めると、パッと表情を明るくした。 「あ、宙くん! 治療終わったの?」 「うん、終わったけど……」  脳震盪を起こしたのに、そんなに走っても平気なのだろうか。ハラハラと彼女の様子をを窺ったが、顔色も悪くないし声も張りがある。だいぶ回復したようだ。 「今、沙月には連絡入れたから。来られそうだったらまた連絡してって言ってたよ」 「そっか、わかった」  それにしても彼女は何をそんなに慌てているのだろう。二階で何かあったのかと問うと、ちあきはげんなりとした顔で口を開いた。 「薫子さんの着せ替え人形にされるところだった」 「……ごめんなさいね」  佳哉は額を手で押さえて、重い溜息を吐いた。上階では、未だに薫子の楽しそうな声が飛んでいる。次は響介が彼の玩具になっていることだろう。 「ところで二人とも、もう一度今回の状況を聞かせてくれる?」  そう言われると、ちあきは大人しく宙と並んでカウンターに座った。 「えっと、今日は沙月の家で勉強会をする予定だったんです。それで二人で沙月の家に向かっていたら、途中で怖い犬に追っかけまわされて……」  覚えている限りのことを言うと、ちあきは宙に目配せをした。彼は少しおどおどとしながら口を開く。 「ちあきが転んで気絶した後、この前の男が現れたんです。響介さんを刺した男が」  彼の話を聞くと、佳哉は神妙な面持ちで答えた。 「同じ奴が二度現れるのは初めてね。何処のどいつか知らないけど、響介に深手を負わせた相手ってことは、かなりの手練れよ」  響介が苦戦していたのに、自分は軽傷で済んだ。と言うことは、今回あの男はかなり手加減をしていたということだ。それであの強さ。本気を出されていたら、自分はどうなっていただろうと思うと、恐ろしくて堪らない。あの男の顔に続いて、響介の顔が思い浮かび、宙は雨粒を払うように頭を振った。 「とにかく、また何かあったらすぐ呼ぶのよ」 「はい」  ちあきの返事から一拍置いて、宙も佳哉の言葉に頷いた。  その日は、大事を取って勉強会は取りやめになった。宙はちあきを家に送り届けてから、自分の家に向かった。 「ごめんね、万里」  自室に着くと、宙は開口一番に告げた。バーでは大人しく話を聞いていた万里も、少しだけ苛立ったように顔を出す。 「僕はいいですけど。どうして呼ばなかったんですか?」  力無くベッドに腰掛けると、宙は重い口を開いた。 「笑わない?」 「僕がそんな性格に見えますか?」  鞄から這い出てベッドの枠に止まると、万里は真面目顔で宙を見つめる。 「そうだね。万里はそんな嫌な奴じゃないか」  宙は安心したように笑った。たった数週間の付き合いでも、彼の性格はわかっているつもりだ。少し堅すぎるほど真面目で、そのために周りに誤解されてしまう。遠慮せずに意見を叩きつけて来るが、それは何事に対しても正直なだけ。その姿は、すごく彼女に似ている気がした。 「たぶん、対抗心を燃やしてたんだよ。ただの嫉妬。ちあきがあの人に盗られるんじゃないかって思ったら、どうしても呼びたくなくて。馬鹿だよなあ」  そう言って、膝に立てた両手に顔を埋める。わずかな沈黙の後、万里は直球に尋ねた。 「宙さんは、ちあきさんのことが好きなんですか?」 「……うん、もうずっと前から」  昔のことを思い出しながら、宙は切ない顔で語り始めた。  ちあきと出会ったのは三歳の頃。彼女が家族と一緒に、日暮れ町に越してきた時だった。家が近所で、生まれた頃から一緒だった沙月が、ある日突然彼女を連れてきたのだ。  あの頃のちあきは、今と変わらず何でも正直に話すが、代わりによく泣きもした。虫が苦手で、ずっと自分の背中に引っ付いていた。自分を頼りにする可愛い姿に惹かれるのは、必然と言っても良いだろう。その潤んだ瞳を見て、彼女は自分が守ってやるのだと幼心に誓ったのだ。大切な友人であり、誰より守ってあげたい女の子。それが、彼にとってのちあきだった。 「今でこそあんなにしっかりしてるけど、それでも俺の気持ちは変わらないまま。どんなに強くなっても、彼女が困った時には俺が力になってあげたい。だけど、一族のことになると俺は無力だ。そう、わかってるのにね」  重苦しい雰囲気を纏い、顔を伏せた宙を、万里は戸惑った様子で見つめた。  同時刻。犬を抱えた男は、立ち並ぶ建物の屋根を足場にして飛びながら、気持ちを抑えきれないようにニタニタと笑った。 「ひひっ! あれじゃあ、バレバレだっつーの」 男は先ほど手合わせした少年の反応から、彼が隠している仄暗い気持ちを見抜いていた。  まずは、あの人に相談してみるか。  あの澄ました野郎も気に食わないが、目的は特別な血を持つ少女の捕獲である。そのためには、敵の牙城を崩すことが近道だ。 「さあ、どんな反応を見せるかな?」  勇敢に立ち向かってきた少年の末路を思い描き、男は気味の悪い笑みを深めた。
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