16 囁き

1/1

14人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ

16 囁き

「うーん? あれ、俺は一体……?」 「あっ、大河!」  飲み物や果物を入れた盆を持って自室に戻ると、ちあきの耳に待ちわびていた声が飛び込んだ。彼女は盆をテーブルに置き、慌ててベッドに駆け寄った。 「大丈夫? さっき身体をぶつけて気絶しちゃったんだよ」  心配そうに見下ろされながら、大河はクッションの上で緩慢な身じろぎをする。頭がはっきりしてきたのか、彼は「大丈夫です」と言って、小さな身体を起こした。 「あの犬はどうなりましたか? 宙さんと万里は?」  ちあきは、先ほどの出来事をかいつまんで説明した。大河の顔から、見る見るうちに元気が抜けていく。彼は最終的に、羽根で身体を隠すように丸くなってしまった。 「皆さんを見守る役目なのに何も出来なかったなんて。一生の不覚……」 「仕方ないよ。あまり気にしないで」  目に見えて落ち込む彼を励まそうと、ちあきは明るい声で言う。 「お腹空いてない? 疲れたでしょう?」  テーブルの上に食べ物を用意していることを告げると、彼は嬉しそうに顔を上げた。糸目のため表情の変化はハッキリしないが、周りに現れる雰囲気で彼の気持ちを察することは出来る。 「好きなだけ食べていいよ」 「かたじけない。お気遣いに感謝致します」  畏まった様子で言うと、彼はテーブルに飛び移って行儀よく果物を食べ始めた。ここ数日でわかったことだが、彼の名前とたまに出る妙な言葉遣いは、某時代劇から来ているのだという。今ではもう慣れたが、初めて聞いた時は納得とともに笑いが止まらなくなってしまった。  思い出し笑いを溢したちあきに、果物を飲み込んだ大河が神妙な面持ちで向き直る。 「それにしても、最近一段と物騒になってきましたね」 「うん」  今日の出来事を振り返り、ちあきの表情は暗くなる。  響介たちのおかげで事なきを得たが、自分が気絶している間に宙は怪我を負ってしまったらしい。本人が大丈夫だと言うので追及はしなかったが、彼の腕には湿布に包帯といった物々しい治療が施されていた。彼が言うほど大丈夫じゃないことは、ちあきににもはっきりとわかる。  どうして彼は、自分に本当のことを話してくれなかったのだろう。  宙の弱音というものを、ちあきはあまり聞いたことがなかった。沙月が一緒の時は口にしている気がするのに。 「やっぱり怖いですよね。これからは、もっと気合いを入れて行きますから!」  思い詰めた表情で黙り込んでいたからか、大河が焦ったように声を掛けてきた。自分に対して怒っているとでも思ったのだろうか。 「今でも充分頼りになってるよ。ありがとね」  そう礼を告げると、彼はほっとして身体の力を抜いた。  週を跨いだ水曜日の昼下がり。日暮れ高校では、二学期中間テストの日程が全て終了した。終業のチャイムが鳴った途端、教室に生徒たちの悲喜交々な話し声が戻る。 「あぁ、もう絶対終わった! 赤点確定だぁ……」  沙月もご多分に漏れず、頭を抱えて大きな声で愁えていた。長時間机に張り付いていたからか、少しやつれたような印象を受ける。 「さっき確認し合った時は出来てたじゃない。大丈夫よ」 「あんなの付け焼刃だからさぁ。いざ始まると全部飛んじゃうんだよね」  沙月が、ぐてっと机に身を預ける。土曜日の事件のことも影響しているのだろうか。彼女は家での勉強に集中出来ていなかった、と朝日から聞いた。 「ごめんね。もし補習になったら勉強付き合うから」  ちあきがそう言うと、沙月は驚いた様子で目をぱちくりと瞬かせた。 「やだなぁ、変に気を遣わないでよ。これは私の実力。それに、勉強はいつも教えてもらってるでしょ」 「そうだけど……」  沙月が勉強に集中出来なかった責任の一端は、自分にもあるんじゃないだろうか。  ちあきが自責の念に駆られていることを見抜いたのか、沙月は明るく告げる。 「ほらほら、さっさと帰ろう! 王子様に挨拶するのも忘れずにね!」  ちあきが鞄を持ったのを見ると、沙月は彼女の背中を押して宙の席へと急かした。  沙月の所属する新聞部は自由な風潮のため、基本的にちあきを優先して一緒に帰ってくれている。勉強のことを含め、彼女に迷惑を掛けていることは明らかだった。  気にするなって言われても、そう簡単に割り切れないよ。  ちあきは罪悪感を拭えぬまま、少し暗い表情で宙の前に立った。沙月が彼女の肩口からひょこりと笑顔を覗かせる。 「宙、また明日ね!」 「……またね」 「あ、うん。気を付けて帰ってね」  喉に何かがつっかえたような挨拶を返される。その言葉に滲む違和感に気づかぬまま、ちあきは教室を後にした。  その日の放課後。宙は部活仲間と別れると、自宅に向かう道を歩き出した。既に日は暮れて、街灯や民家から漏れる明かりが心許ない様子で地面を照らしている。残念ながら方向が一緒の生徒はいないので、彼は家まで一人で帰らなければならない。  生徒たちの気配が遠ざかると、唯一の同行者である万里が鞄から顔を出した。 「今日もお疲れさまでした」 「うん、ありがとう」  好きでやっている部活なのだから、丁寧な労いは身に余る。そう思ってはいるのだが、毎回律儀に声を掛けてくれる万里の優しさに、宙は心が温かくなった。 「そう言えば。今日のちあきさん、何だか元気が無かったですね」 「うん、そうだね……」  帰り際に見た、彼女の表情を思い出す。  やはり、追手が増えて不安が募っているんだろうか。  それならば、少しでも早く彼女を取り巻く問題を解決してあげたい。  宙が難しい顔で考えていると、突然二人の前にひょろっとした人影が現れた。宙の心臓がびくりと跳ねる。確かに前方から歩いて来たのだろう。しかし、顔をフードで隠した姿はするりと闇から抜け出してきたようで、直前まで全く気が付かなかったのだ。 「よう、この前ぶりだな」 「えっ」  その剣呑な声に身を強張らせる。すると、相手はその重たいフードを剥ぎ取った。 「お前は……っ!」  現れたのは、この前宙と対峙した若い男だった。 「大きな声を出すな。何もしねぇよ」  彼は煩わしそうに顔をしかめて、口の前に人差し指を立てる。 「今日はお前に良い話があるんだ」 「良い話……?」  恐る恐る聞き返すと、男の唇がゆっくりと弧を描いた。 「お前、あの吸血鬼のことが邪魔なんだろ?」  宙は目を見開いた。そのことは、万里にしか打ち明けていないはずなのに。  予想だにしなかった事態に、彼の戸惑いは爆発的に膨れ上がっていく。 「あいつはな、俺たちにとっても憎むべき存在なんだ」   男は絵画を眺めるかの如く優雅な足取りで、彼の前に半円を描いて歩き始めた。それを避けるように、宙は覚束ない調子で後退る。 「お前はあいつを消したい。そして、俺たちはあいつを捕まえたい。どうだ、利害が一致してるだろ? ここはひとつ、手を組まねえか?」  男は、宙に小さなメモ用紙を握らせた。 「明日の夕方、この場所に奴を誘き出してくれ。そうすれば後は上手くやってやるよ」  男が一瞬だけ触れた手を、化け物と相対したかのように怯えた目で見つめる。小刻みな震えは止まらず、宙は自分が情けなくなった。 「そんなに怖がることはねぇだろ。もし協力してくれたら、お前とオトモダチの安全は約束してやる。そして、あの女はお前だけのものになるんだ」  そう言うと、男は夜空に浮かぶ深淵の影にその身を晦ませた。  彼は金縛りにあったかのようにじっと佇み、男の消えた場所を見つめ続けた。額から流れる汗が、奇妙なくらい熱の引いた肌を伝った。 「それじゃあ、六時に」  翌日の夕方。宙は人が捌けた昇降口で、電話の相手にそう告げて通話を切った。スマホを持った手が、やけに湿っている。  ―――これで良いんだ。  自分の選んだ道は間違っていないんだと、必死で言い聞かせる。  今日のために、彼は部活を自ら欠席した。不都合が生じるので、万里にも外出してもらっている。彼らしからぬ潔い行動は、秘めた決意の固さそのものだった。 「宙、私たちもう行くね!」 「またね」 「うん、気を付けて!」  沙月とちあきが、連れ立って学校を後にする。今日は繁華街で買い物をするらしい。  鞄を背負い直すと、彼は二人の無事を祈りながら自分の目的地へと向かった。  昨夜の男が指定したのは、日暮れ町から南方面に歩いた先にある、眺望が美しい川沿いの工業団地だった。  灰色と混ざった半端な夕空が、沈んだ気持ちにのしかかり、彼の足取りを重くする。しかし、時間は待ってくれやしない。ぐるぐると考えながら歩いていると、廃工場はいつの間にか目の前にそびえ立っていた。  立ち入り禁止のロープを潜り、放置されたままの工場内に足を踏み入れる。天窓に打ち付けられた透明のポリカーボネート板からは、くすんだ橙色が差し込み、だだっ広い内部を照らしていた。全体的に埃っぽく、剥き出しになっている骨組みは錆びつき、行き場のないケーブル類がだらりと垂れ下がっている。その奥に隠れるようにして、ロフトを思わせる広い二階部分が正面に迫り出していた。  落ち着かない雰囲気に耐えながら、中ほどまで歩みを進める。しばらく待っていると、彼の耳に一人分の足音が飛び込んだ。 「待たせたな」  聞き覚えのある声に振り返る。開け放たれた工場の入り口には、響介が立っていた。 「いえ、大丈夫です」  宙は気持ちを悟られないよう、無表情に徹して答えた。響介は彼との距離をゆっくりと詰めてくる。 「それで、何の用だ?」 「……恨まないで下さいね」  絞り出すように言うと、柵で隔てた二階の奥から、荒々しい足音が近づいて来た。 「はっ、ようやく来たか! 待ちくたびれたぜ!」  こちらを挑発するような言い方に、勢いよく顔を上げる。柵の向こう側で、例の男が歪んだ笑みを浮かべていた。 「言った通り連れてきたぞ。約束は覚えてるんだろうな」  宙が屈辱に耐えながら言い放つ。すると、男はさも当然と言った様子で、その眉を大袈裟にひそめた。 「あぁん? さーて、何のことだか」 「なっ、話が違うだろ!」  怒りを露わにする宙を見て、男は心底可笑しそうに喉を鳴らした。 「ひひっ、馬鹿正直で涙が出てくるなあ。そいつをあの女から引き剥がして、何も起こらねえと思うのかよ!」 「どういうことだ!」  宙が威嚇するように強気で詰め寄るも、全く効いた様子は無い。それどころか、一層愉快な様子で笑い声を上げている。 「今頃、あの女の所にこっちの手先が向かってるよ。残念だったなあ、大事な大事なお姫様を守れなくて」  小さな騎士を連れただけの、幼馴染二人の姿が思い浮かぶ。  心臓がバクバクと暴れ出し、彼が固唾を飲んだその瞬間。刃物のぶつかる鋭い音が、暗い工場内に響き渡った。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加